2012年12月25日火曜日

男性産科医がお産の主役に

したがって、使い方によっては非常に女性の味方として貢献するはずの経済的理由による中絶の容認という法律の制定も、初めて人工妊娠中絶手術を合法的な産児制限法として、採用できることとなった一般の大部分の人々にとっては、ただ単に「いらない子どもはお金を出せば何の苦もなくオロセる」という結論を与えるにとどまった。

一方、こうして頻繁に人工妊娠中絶手術によって産科医と接触し始めた若妻たちは、これまで持っていた男性産科医への拒否反応を徐々に払拭し、手術ができる、より高度な知識と技術の保持者として、反対に信頼感を強めていった。なぜなら、出産はそれまでほとんどすべて、同じ地域にすむ産婆(一九四七年助産婦と名称変更)を招いて自宅で取り行なうものであったからだ。よほどの異常産でない限り産科医がお産の場に招かれることはなかったし、産科医自身もまた、平常産は産婆の領域とし、そのようなものを扱うことを恥とする風潮さえあった。つまりお産は自宅で行なう女性の暮らしの一コマで、医療の必要な分野ではなかったのである。

ところが、一九四八年に人工妊娠中絶が「経済的理由」によって行なうことが可能となり、その法律が全国津津浦浦まで周知されると、一九四二~四八年に戦地から帰った夫の間に子どもを産んだ妻たちは、次の妊娠では人工妊娠中絶を望む場合が激増した。しかし、人工妊娠中絶手術は医師会の指定す&産科医にしか許されず、若妻たちは出かけて行って、その産科医の門をくぐらねばならなかった。

中絶体験によって、男性産科医との接触と身体の性的領域へ男性が関与することに対する拒否感をある程度克服した若妻たちが、次に妊娠し、出産する場合、お産もまた、その産科医を選ぶようになることは十分考えられる。この時からお産は医療者の関与が必要なものであり、またそれら医療者の持つ知識や技術の高度さが安産に対して強い影響力をおよぽし、個々人のお産の良否までも決めるものとの認識がされるようになったのである。

平常のお産が一九六五年頃から、急激に産科医の立ち会い増加へと転じた要因は、敗戦後の日本を行政指導したGHQ幹部たちの母国、アメリカの産科医療事情が、当時、助産婦の価値を過小評価したことによることなどは先に述べた。またおびただしい数の中絶希望者から産科医に入る収入は、敗戦後の立て直しを図る産科医たちの事情を好転させ、彼らも「平常産は男のやることじゃない」などと建て前論だけを押し通すわけにはいかなくなったこと、あるいは人々の心に大学教育を受けた産科医へのより深い信頼感が蓄積されたこと、さらにまた、産科医の持つ新しい医療技術が、時として起こる異常産に対して確実に威力を発揮し、女性たちを救ったことなど様々な要因があげられる。だが、先に述べた、女性たちの中絶体験における産科医との出会いという要素もまたかなり、重要な要因だと思われる。

こうして平常のお産までも、産科医の立ち会いを必要と考える人が多くなった。世の中が落ちつき、高度経済成長政策によって国民のふところに少し余裕が生じる一九六〇年代後半には。「少産型で手厚い子育て」を希望する親たちが増え、医療者である産科医がお産の場に必要不可欠の人となったのである。すでに、初歩的な近代西洋医学教育を受け、助産専門家資格を取得した産婆(後、助産婦)が、日本のお産の場に登場するまで(都市部などは明治末期、山深い村里や離島などでは敗戦前後)、お産は、産婦自身の持つ家族、血縁、地縁などのネットワークに任されていたことはすでに述べた。