2013年11月6日水曜日

人間の行動様式

買い物もせず、飲食もせずに長時間話し込むかれらは、商店にとってはお客ではなく、経済的観点からは何らの価値も産み出さない。しかし、かれらの姿こそが、町にえも言われぬ人間味を与えている。人口が少ないブータンは、言ってみれば巨大な家族・親族であり、村落共同体である。どこにいても、親戚と出会うし、顔見知りがいる。インドをはじめとする外国の大都会の、誰もが誰にたいしても無関心で、誰にたいしても無名某氏で気兼ねなく行動できる気楽さ、自由さ、それは同時に孤独さ、疎外にもつながるが経験した人たちの中には、これが息苦しいと言う人もいる。

しかし大半のブータン人は、やはりこの親族的・地域的繋がり、絆のある場に安らぎを見出しているようである。人間の行動様式は、文化とか、社会形態とか思想体系といった。ことにより左右される面もあるが、もっと単純に社会の大きさというのも、きわめて重要な要素ではないだろうか。ブータン社会を見ていると、人間が人間的であるためには、仰々しいことではなく、人間的なサイズであることが必要なのではないかと思う。たとえば情報に関して言えば、片や新聞、テレビ、ラジオといったマスメディア、さらにはIT時代の象徴である大容量・高速のインターネットによる一方的な情報と、片や面と向き合い、肌のぬくもりが伝わる距離で、肉声により交換される情報、この両者のうちどちらがより人間的なのかは言うまでもないであろう。

量だけを問題にする場合には、肉声はマスメディアとインターネットに勝ち目はない。しかし問題は量ではない。感情、愛情といったもっとも人間的で不可欠な情緒に関する限り、問題は量ではなく、質である。その他、行政を含めたもろもろの分野でも、社会、共同体のサイズは、その中で生きる人の、生活様式ひいては生活の質に決定的な影響を及ぼす。手続きを行う窓口一つにしても、受付係と申請者が、お互いに何の面識も、繋がりもない場合、両者はお互いに全く無関心でしかありえず、すべては機械的な非人間的な処理に終わってしまう、あるいはそうでしかありえない可能性が高い。しかしIリ両者の間に、血縁的・地域的、あるいはそれ以外の何らかの繋がりがある場合、書類の申請・受理が、ただ単なる手続きではなく、何らかの人間的な交流があるものとなる。

人間が、ある決められた作業・仕事をこなすだけの単なる「××係」「××員」に過ぎなくなるか、顔と名前があり、血の通った生身の人間でありうるか、この本質的な分かれ目は、案外と単純に人間社会の大きさなのではないだろうか。この視点から見ると、ブータン人は、人間的なサイズの社会で、自然と調和し、仏教の教えに従い慎ましく、等身大で人間味あふれる生活を満喫しているヒューマニストたちである。ブータンは、仏教ヒューマニズムの国である。

先に紹介した渡辺一夫は、ヒューマニズムに関して、「それは人間であることとなんの関係があるのか」と、つぶやく気持ちがなるべく多くの人々の心に宿り続けてほしいと、つくづく思います」(前掲書)と述べている。わたしとしてはブータンの「国民総幸福という名のヒューマニズム」を紹介した本書が、経済発展に邁進するあまり、ややもすれば人間性をないがしろにする傾向がある日本人にとって「それは人間が幸福であることとなんの関係があるのか」と考え直す一つのきっかけになれば、望外の喜びである。