2014年10月16日木曜日

下世話な職業訓練

諸外国と比べたとき、日本の小学校の教育水準はかなり高い。読み書きそろばんレベルを教わる課程は、真面目な日本人に合っているのかもしれない。中学もけっこう高い。だが、高校、大学、大学院と上に行けば行くほど、中身の密度が希薄化していくのはなぜなのか。しかも、教える内容が間違っている。もっと社会に出て役に立つ知識を身につけなければならない。もちろん、才能に恵まれた子どもたちは、レベルの高い高校からレベルの高い大学・大学院に進学して、ハイレペルの研究環境で切磋琢磨すればいい。ノーベル賞を狙いますという人たちは一定数必要なので、トップクラスのアカデミックスクールは、社会全体で残しておかなければいけない。いや、そういったトップ校は、ひたすら学問の世界のオリンピック金メダルを目指し、ハーバード大やスタンフォード大、オックスフォード大やケンブリッジ大にガチンコで勝負を挑んでもらわないと困る。

だが、いまの教育システムでは、スポーツにたとえれば、オリンピックで金メダルを目指せる才能の人と、趣味のジョギングが精一杯の人を、同じ仕組みで教えようとしている。ここに大きな無理がある。そんなことは本来あり得ない。それでは、両方ともダメになってしまうのだ。実際、ほとんどの大学で研究者を目指す人はごく一握りで、卒業生の大半が就職していくわけだから、そういう大学がアカデミックスクールを気取っても、まったく意味がない。特に文系学部はそうである。大学「教授」といっても、社会人として生きていく術を学生たちに「教え」「授けて」いる先生はほとんどいないのが現実だ。

だいたい社会人として娑婆で暮らしたことがない人にその術を教える能力はない。こういうことを言うと、大学教授の本分は研究、真理探究であって、下世話な職業訓練ではないという手合いが出てくる。しかし、研究のプロを自任しているのかもしれないが、グローバルレベルで競争力のある研究をしている人がはたしてどれだけいるか。研究の世界こそ、きわめて冷酷冷徹に高い能力のみが求められるのであって、アカデミックの世界で本当に戦える人材は一割もいないのではないか。残りの九割は、残念ながら、アカデミックとは無関係。だから、黙って職業訓練能力を磨くことに徹すればいいのだ。

その意味で、大半の大学教員のキャリアパス、人材要件は、大幅に書き換える必要がある。社会人として、企業人として、生きていく基本作法、スキルを自分自身がちゃんと身につけているか、そしてそれを教えられるか。そういった能力を持っている人は、会社の中にこそたくさんいる。そう、中高サラリーマンを大量に大学教員として採用すればいい。そうすれば企業の人件費負担は軽くなるし、社内の人口逆ピラミッド構造問題、いわゆる「上司高齢化問題」も解消して新卒学生への求人も増えるだろう。既存の大学教員の失業は増えるかもしれないが、博士課程を卒業できるほどのインテリエリートの失業問題まで国家や社会が心配する必要はない。

そもそもビジネススクール、ロースクールは高等職業訓練校明治期に開校した多くの大学、たとえば早稲田大学は東京専門学校、明治大学は明治法律学校、中央大学は英吉利法律学校として始まっている。これらの学校は、いまで言う専門学校、要するに職業訓練校なわけで、一部の上位大学を除いて、その時代に戻ればいいのである。研究者を輩出するアカデミックスクールは、日本全体で一〇、多くとも二〇大学もあれば十分ではないか。米国では、ロースクール、ビジネススクール、メディカルスクールというのは、完全に職業訓練校になっている。天下のハーバードービジネススクール、ハーバードーロースクールといえども、ただの「高等職業訓練校」なのである。