2014年12月17日水曜日

一ドル三百六十円の時代

永子さんが私より十歳下、洋子さんはさらに五つ下です。年代が違いますから、いわゆるライバルじゃないんですけど、お二人とも私の踊りの一挙手一投足をまねしました。年長の私か少し先を行こうとちょっと動きを変えても決して見逃しません。先輩から吸収しようという気迫は怖いほどでした。年代の差で三人のファン層は、小学生から大人まではっきり分かれていました。

頻繁な公演のおかげで、舞台写真が少女雑誌の扉を飾るなど、バレエ団の知名度はだんだん高くなりました。でも、肝心の公演には、そうは観客が入らない。それに、バレエの公演というものはたとえ満席でも赤字になるものなのです。入場券の売り上げは会場費やオーケストラなどにほとんど消えてしまいます。新作なら装置、衣装にも大きなお金がかかりますし、踊り手へのギャラなどとても出ません。職業バレエ団でも、そんな状況だったのです。頻繁な公演は牧バレヱ団の台所事情を猛烈に圧迫しました。元々、母の率いる橘バレエ団の時代に一度破たんしているんです。公演で借金がかさんで、当時後援会長をしておられた武者小路実篤先生にも出席して頂いた幹部会議で、「もう公演は致しません」つて母は約束した。でも若手も育ってくるし、公演がやりたい。「バレエ学校の発表会なら良いだろう」というので、団員が最後の方で踊っていたんです。

それが、私のアメリカ留学で、母はまた相当借金をしてしまいました。一ドル、三百六十円の時代です。滞在費やレッスン料など、際限なくお金がかかりました。その後かなり借金が返せたので公演を再開したんですが、牧バレエ団を旗揚げして、また借金が重なっていきました。なんといっても大きな赤字を出しだのが定期公演で、結局二年で断念せざるを得ませんでした。六〇年代半ば過ぎには、「手形が落ちないと今日の幕が上げられない」と、早朝から知人やバレエ団の支援者からお金を借りて回る「借金地獄」になっていたのです。

牧バレエ団に大変な借金があることに薄々気付いたのは、一九六二年ごろでした。母は決して愚痴を言わない人なんです。だから、母の口からは何も知らされていませんでした。でも次第に隠せなくなってきたんです。六九年一月、母のバレエ生活四十周年を記念する「飛鳥物語」の公演が東京・日比谷の日生劇場で行われました。その準備中から母の様子がおかしくなりました。気分が悪くなったり稽古を見ていて居眠りをしたり。そして私の愛称を呼んで、「チャミ、ママは頑張っても疲れてだめなの」と弱音を吐くのです。それまでにはないことでした。公演を終えると十日足らずで倒れ、肝硬変でずっと入退院を繰り返すようになりました。借金のやりくりも、私の肩にかかってきました。

借金をゼロにすることにしたのです。入院中の母は、私か付き添わないと駄目でしたから、借金の清算と看病で、次第に舞台に立つどころではなくなっていきました。引退など考える暇もなくトゥシューズを脱ぐことになったのです。でも団員や生徒の稽古は一日も空白にできません。改めて私かお金を借りて、小さな校舎を渋谷区富ヶ谷に建てることにし、幼い時に別れたままの父の危篤の知らせがインドから入ったのは、その最中の七〇年六月のことでした。衰弱した母に代わって私かボンベイ(ムンバイ)へ行き、僧院のような所で三十三年ぶりに父と対面しました。父は力なく私の手を握るのがやっとで、翌朝には帰らぬ人になりました。帰国すると母は黙って遺骨を受け取りましたが、夜中に遺骨を抱いては四、五日泣いていました。