2015年3月17日火曜日

若い世代の投票行動が新しい政治構造を生み出す

その司法権の頂点にいる最高裁判所が、衆議院なら二倍まで、参議院に至っては五倍までは「立法府の裁量の範囲内」で合憲と言っている。これはもう完全な責任放棄である。立憲民主主義の根幹たる投票価値は、限りなく平等であるべきこと、一対一に近づけるべきことは、当然の原理原則でありヽまともな先進国の常識である。おまけにその格差を上回る違憲状態で選挙をやっても、「違憲状態」と宣するにとどまり、事情判決という緊急避難的な法理を持ち出して、選挙無効とは言わない。法技術的には、同じく緊急避難的な法理で、選挙無効の効果を選挙時点まで遡らせない(だから選挙後、判決時点までの立法や予算措置は無効にならない)方法もあるし、問題のある選挙区だけの部分無効という判決も可能なのだ。ところが、そういう判決を出せないのは、要はビビッているだけとしか、私には思えない。

こんな無責任で臆病な連中を国民主権の名のもとに罷免する唯一の手段が、衆議院議員選挙と同時に行われる最高裁判所裁判官国民審査である。若い世代は、投票所に行き、少なくとも、この問題に消極的な裁判官にはどんどん×をつけるべきだ。もし個別の裁判官の意見がよくわからなければ、全員×をつければいい。無責任で臆病な裁判官を説得できなかった責任は、改革派の裁判官にもあるのだから。彼らは基本的に学歴エリートである。何よりも恐れるのは、ここまでエラくなってから公衆の面前で恥をかくこと。だから×の比率が高くなることを、本当はとても気にしている。ましてや誰かが本当に罷免されでもしたら、これは大衝撃だ。国民審査で罷免されても、「これは自分の法律家としての信念だ!」と居直れるようなタマは九九・九%、最高裁判所裁判官にはいない。×の潜在的な影響力は絶大なのだ。これを使わない手はない。

よく、政界再編をやらないといまの政治的な閉塞状況は打開できないと言う人がいる。しかし、小泉政権の登場と政界再編は関係ないし、橋下旋風においても大阪地方の政界再編はあとからついてくる構図だ。前にも述べたように、もともと日本の政治風土において、政党などというものは、概ね利害得失と政局の都合で離合集散した結果の産物にすぎない。私は今後もその基本構造に劇的な変化は起きないと思っている。あるのは、ある大きなアジェンダを巡って雌雄を決さざるを得ないときに浮かび上がる対決の構図のみだ。そのとき、どの党に属するかなどというものは大した問題ではなくなる。政界再編的な立場の集約は結果的に起きてくるのだ。

したがって、国民世論を真剣に二分するような、シリアスかつリアルな問題を浮かび上がらせることこそが重要なのだ。本書で繰り返し述べてきたように、若い世代の皆さんが声を上げること、そして政治家を選ぶ選挙や裁判官を罷免する国民審査の投票行動で、明確な一つの方向性を示すことが大事である。周りの仲間と、あるいはインターネットを通じて、投票に行くこと、そしてどんな政治家や政党に入れるべきか、あるいはどの裁判官に×をつけるか、について話し合ってほしい。選挙のたびに粘り強く、繰り返して。そういう行動こそが、新しい政治構造を生み出すのだ。

改革派による権力闘争が、ある程度。いいところまで行くと、必ず旧勢力、抵抗勢力から「長いものには巻かれろ」的な甘いささやきが始まる。それも個々人や個別集団のレベルで内々に。要は個人や部分に対して利益供与を約束して、寝返りを誘い、改革派を分断しようとしているのである。人のいい人物ほど、この誘いに弱い。「いたずらな対立はやめ、すべての世代が共存共栄でいくべきだ」という論理は、「和をもって貴しとなす」私たち日本人には美しく響く。将来の地位やカネを約束してくれているのだから、この辺で矛を収めるというのは、心情的にも早く安寧な状態に戻れる点で魅力的だ。