2015年4月16日木曜日

北欧からの移民のもつ意味

じっさい、記録によると、十八世紀はじめのヴァージニア州での土地所有は五〇エーカーないし二〇〇エーカーの家族農業が圧倒的大多数であって、一〇〇〇エーカー以上のタバコ栽培業者はわずか十五人にすぎなかった。プランディジョン方式を並存させたヴァージニアでさえそうなのだから、北部は文字どおり独立自曾於民の世界であったというべきであろう。十八世紀以降、北欧・東欧の小農民が中西部に入植して集約的な家族長業をはじめるようになると、小農のイデオロギー的定着は、いよいよ確実なものとなった。

宗教的には、とくに北欧からの移民のもつ意味が大きい。これら北欧系移民は散斑なルーテル派、あるいは長老派のプロテスタントであることが多かった。ホフスタッターのいうような、ほとんど宗教的象徴にちかい存在としての独立自営雌民のイメージは、こんなふうにして洗練の度を加えてゆくのであった。

そこには、スキを片手に、誰にも依存せず、ひたすら神に祈りながら黙々とはたらきつづける家族農業のすがたがあった。ジェーンが立ち寄った、あの長家も、そういう西部の独立自営農民の家であったはずである。そのことを念頭においてみると、ジェーンが子どもにのこしていったあのことば11世のなかでいちばん勇敢で立派なのは君のパパなんだの意味は、さらにはっきりしてくるはずである。

さらにいうならば、このようなアメリカ社会で農業にあたえられる大きなプラスの価値こそが、まえにのべた丸太小歴出身の大統領の物語を生み出した母胎だったともいえよう。農村、とりわけ巾西部から河部へかけての農村の、独立自営設の家庭にうまれた人物、その人物こそがアメリカ人なのであり、したがって、アメリカ大統領としてふさわしいのである。独立自尊の農民のイメージーそれは、依然として、アメリカ人の理想像のひとつなのだ。

しかし、独立自曾於民のイメージを定着させることのできた南北戦争は、同時に、アメリカ経済の主力が農業から工業に移行することを決定的にした歴史的事件であった。北部の工業地帯は、加速度的に成長をつづけた。それまでは、かなり多くの工業製品をヨーロッパから輸入していたのだが、十九世紀なかば以後のアメリカは、工業製品も自前で調達できるようになっていた。いや、すでに、ヨーロでハと競争できるところまでアメリカ工業は大きくなっていた。じつのところ、ペリー捉督のひきいるアメリカ艦隊の日本回航の背景になっていたのも、すでにアメリカが工業製品輸出国になることができていたからである。ペリー提督は、アメリカ工業製品の販路開拓の尖兵であった。