買い物もせず、飲食もせずに長時間話し込むかれらは、商店にとってはお客ではなく、経済的観点からは何らの価値も産み出さない。しかし、かれらの姿こそが、町にえも言われぬ人間味を与えている。人口が少ないブータンは、言ってみれば巨大な家族・親族であり、村落共同体である。どこにいても、親戚と出会うし、顔見知りがいる。インドをはじめとする外国の大都会の、誰もが誰にたいしても無関心で、誰にたいしても無名某氏で気兼ねなく行動できる気楽さ、自由さ、それは同時に孤独さ、疎外にもつながるが経験した人たちの中には、これが息苦しいと言う人もいる。
しかし大半のブータン人は、やはりこの親族的・地域的繋がり、絆のある場に安らぎを見出しているようである。人間の行動様式は、文化とか、社会形態とか思想体系といった。ことにより左右される面もあるが、もっと単純に社会の大きさというのも、きわめて重要な要素ではないだろうか。ブータン社会を見ていると、人間が人間的であるためには、仰々しいことではなく、人間的なサイズであることが必要なのではないかと思う。たとえば情報に関して言えば、片や新聞、テレビ、ラジオといったマスメディア、さらにはIT時代の象徴である大容量・高速のインターネットによる一方的な情報と、片や面と向き合い、肌のぬくもりが伝わる距離で、肉声により交換される情報、この両者のうちどちらがより人間的なのかは言うまでもないであろう。
量だけを問題にする場合には、肉声はマスメディアとインターネットに勝ち目はない。しかし問題は量ではない。感情、愛情といったもっとも人間的で不可欠な情緒に関する限り、問題は量ではなく、質である。その他、行政を含めたもろもろの分野でも、社会、共同体のサイズは、その中で生きる人の、生活様式ひいては生活の質に決定的な影響を及ぼす。手続きを行う窓口一つにしても、受付係と申請者が、お互いに何の面識も、繋がりもない場合、両者はお互いに全く無関心でしかありえず、すべては機械的な非人間的な処理に終わってしまう、あるいはそうでしかありえない可能性が高い。しかしIリ両者の間に、血縁的・地域的、あるいはそれ以外の何らかの繋がりがある場合、書類の申請・受理が、ただ単なる手続きではなく、何らかの人間的な交流があるものとなる。
人間が、ある決められた作業・仕事をこなすだけの単なる「××係」「××員」に過ぎなくなるか、顔と名前があり、血の通った生身の人間でありうるか、この本質的な分かれ目は、案外と単純に人間社会の大きさなのではないだろうか。この視点から見ると、ブータン人は、人間的なサイズの社会で、自然と調和し、仏教の教えに従い慎ましく、等身大で人間味あふれる生活を満喫しているヒューマニストたちである。ブータンは、仏教ヒューマニズムの国である。
先に紹介した渡辺一夫は、ヒューマニズムに関して、「それは人間であることとなんの関係があるのか」と、つぶやく気持ちがなるべく多くの人々の心に宿り続けてほしいと、つくづく思います」(前掲書)と述べている。わたしとしてはブータンの「国民総幸福という名のヒューマニズム」を紹介した本書が、経済発展に邁進するあまり、ややもすれば人間性をないがしろにする傾向がある日本人にとって「それは人間が幸福であることとなんの関係があるのか」と考え直す一つのきっかけになれば、望外の喜びである。
2013年8月28日水曜日
アクセルはあってもブレーキがない日本の公共工事
〈私は、私たちがかねて琉球文化圏と呼んでいるこの奄美と沖縄地域の島々が、まぎれもなくさんご礁の干瀬を共有し、自然的条件のうえにおいてもほとんど共通していることに気づかされたのである。ここで私は、文化を育む基盤は大自然のもたらす条件や恩恵と深くかかわっているという想念にたどりつき、いつの間にか「コーフル文化圏」という言葉を頭の中で造り出したのである〉(『徳之島の民俗2 コーフルの海のめぐみ』)私たちの生活も文化も、自然環境抜きには語れない。たとえば、糸満の「追い込み漁」も徳之島のカムイ焼(一九八三年に徳之島・伊仙で発見された古窯跡群で焼かれた土器)も、このコーフル文化圏を器に南西諸島のすみずみに広がった。このコーフル文化圏を、島尾敏雄が名付けたヤポネシアや琉球文化圏に重ねるとさまざまなイメージが広がる。
泡瀬干潟を近隣住民の共有資産としてはどうか。泡瀬干潟は、コーフル文化圏を象徴するものだ。それが二〇世紀末に埋め立てられることになったのである。その理由が実にいかがわしい。一九九八年に、中城湾新港地区を「特別自由貿易地域(FTZ)」とする構想が生まれ、大型船が停泊する港を建設する計画が具体化したのはいいが、海底を浚渫する際に出る土砂の捨て場所に困った。そこで南側にある泡瀬干潟が選ばれたというわけである。つまり、泡瀬干潟を土砂の捨て場にしようというわけだ。埋め立てた跡にできる約一八五ヘクタールをマリーナーリソートにし、さらに企業を誘致すれば、雇用の場が生まれるし観光客が押し寄せて、地元にとっては一石二鳥というわけである。
ところが、私かホテル業者やマンション業者から聞いたかぎり、「開発の誘いは何度も受けているが、東海岸ではリスクが大きすぎるので断っている」と、全員が首を振った。「沖縄バブル」のさなかでもこれだから、サブプライムローン問題で世界的に経済が落ち込んでいる今なら確実にノーと言うだろう。さらに本土復帰以来、八兆五〇〇〇億円も使ってこれといった企業を誘致できなかったのに、今さら泡瀬に本土の企業がやってくるとも思えない。希望がないのに、あわよくばという幻想だけで見切り発車したのが泡瀬干潟埋立事業だった。埋め立てた後、土地の買い手がなければ、沖縄市は莫大な費用(予算規模約四三〇億円の三分の二と言われる)を負担することになる。払えなければ市民から徴収するしかない。そんなバクチ的事業に、那覇地裁が県と市に対して公金の支出を差し止めたのが〇八年一一月の判決だった。
しかし、案の定というべきか、県は公訴した。アクセルはあってもブレーキがない日本の公共工事の、これこそ典型的な例だろう。それにしても、干潟の埋め立てに反対するグループは「開発や埋め立てを中止せよ」と叫び、県や市は、結果がどうなろうと埋め立てを強行しようとする。なぜ二者択一の結論しかないのだろう。かつて日本には、里山などに入会権というものがあったが、この泡瀬干潟を近隣住民の共有資産とし、観光や町並みづくりに活かそうという発想はなぜ生まれないのだろう。沖縄から電柱を取り除くことができたならかなり前のことだが、沖縄県の職員と酒を飲んだとき、酔った勢いでこんなことを言われたことがある。
「あの沖縄振興開発予算を、道路なんかに使わず、沖縄から電柱をとっぱらう費用にすればよかった。これなら沖縄の土建業界も困らないし、日本で唯一電柱のない県として話題になったはずだ。悲しいことに、県行政のトップは真剣に政府と話し合おうともせず、もらえるカネは使っちゃえと、ただ漫然とばらまいてきたんだよ」県庁にもわかる人はいるんだと、私はちょっとうれしくなった。国道五八号線を北上すると、恩納村のいんぶビーチを越えたあたりに、短い距離だが電柱のない区間がしばらく続く。日本人は「電柱があっても見えない民族」と馬鹿にされるが、日本人でもそういうところを走るとどこかほっとする。電柱があるとないとでは、それだけ感じ方が違うのだ。
泡瀬干潟を近隣住民の共有資産としてはどうか。泡瀬干潟は、コーフル文化圏を象徴するものだ。それが二〇世紀末に埋め立てられることになったのである。その理由が実にいかがわしい。一九九八年に、中城湾新港地区を「特別自由貿易地域(FTZ)」とする構想が生まれ、大型船が停泊する港を建設する計画が具体化したのはいいが、海底を浚渫する際に出る土砂の捨て場所に困った。そこで南側にある泡瀬干潟が選ばれたというわけである。つまり、泡瀬干潟を土砂の捨て場にしようというわけだ。埋め立てた跡にできる約一八五ヘクタールをマリーナーリソートにし、さらに企業を誘致すれば、雇用の場が生まれるし観光客が押し寄せて、地元にとっては一石二鳥というわけである。
ところが、私かホテル業者やマンション業者から聞いたかぎり、「開発の誘いは何度も受けているが、東海岸ではリスクが大きすぎるので断っている」と、全員が首を振った。「沖縄バブル」のさなかでもこれだから、サブプライムローン問題で世界的に経済が落ち込んでいる今なら確実にノーと言うだろう。さらに本土復帰以来、八兆五〇〇〇億円も使ってこれといった企業を誘致できなかったのに、今さら泡瀬に本土の企業がやってくるとも思えない。希望がないのに、あわよくばという幻想だけで見切り発車したのが泡瀬干潟埋立事業だった。埋め立てた後、土地の買い手がなければ、沖縄市は莫大な費用(予算規模約四三〇億円の三分の二と言われる)を負担することになる。払えなければ市民から徴収するしかない。そんなバクチ的事業に、那覇地裁が県と市に対して公金の支出を差し止めたのが〇八年一一月の判決だった。
しかし、案の定というべきか、県は公訴した。アクセルはあってもブレーキがない日本の公共工事の、これこそ典型的な例だろう。それにしても、干潟の埋め立てに反対するグループは「開発や埋め立てを中止せよ」と叫び、県や市は、結果がどうなろうと埋め立てを強行しようとする。なぜ二者択一の結論しかないのだろう。かつて日本には、里山などに入会権というものがあったが、この泡瀬干潟を近隣住民の共有資産とし、観光や町並みづくりに活かそうという発想はなぜ生まれないのだろう。沖縄から電柱を取り除くことができたならかなり前のことだが、沖縄県の職員と酒を飲んだとき、酔った勢いでこんなことを言われたことがある。
「あの沖縄振興開発予算を、道路なんかに使わず、沖縄から電柱をとっぱらう費用にすればよかった。これなら沖縄の土建業界も困らないし、日本で唯一電柱のない県として話題になったはずだ。悲しいことに、県行政のトップは真剣に政府と話し合おうともせず、もらえるカネは使っちゃえと、ただ漫然とばらまいてきたんだよ」県庁にもわかる人はいるんだと、私はちょっとうれしくなった。国道五八号線を北上すると、恩納村のいんぶビーチを越えたあたりに、短い距離だが電柱のない区間がしばらく続く。日本人は「電柱があっても見えない民族」と馬鹿にされるが、日本人でもそういうところを走るとどこかほっとする。電柱があるとないとでは、それだけ感じ方が違うのだ。
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