2013年12月25日水曜日

米ソは共通の利益をもつ

イーイ戦争の関連では、米国もサウジアラビアなど君主制産油国からの求めに応じ、高価な兵器を売り込んでいるから、中東の混乱を好機に転じている点でソ連と同じである。このことは別項‐「水平線上戦略」でも詳述してある。石油という面で、ソ連と中東のかかわりは微妙である。産油国には、OPECに加入している十三ヵ国のほかに、OPECに加入していない国ぐにがある。ソ連は有力な非OPEC諸国のひとつだが、世界の石油市場では非OPEC諸国の役割が大きくなっている。世界の石油市場を占める割合をみると、一九八一年を境に、非OPEC諸国がOPEC諸国を上回ったのである。

そこから、OPEC諸国と非OPEC諸国の協力の可能性が開けてくる。一九八六年八月と十月、OPEC総会は価格の低落を食いとめるため、加盟国に生産量を割り当て、その厳守を約束しあった。このとき、注目すべきことに、OPECはソ連、英国、米国といった非OPEC産油国にも協力を呼びかけていることだ。OPECが生産量を制限しても、非OPEC諸国がここぞとばかり生産量を増やしたのでは、価格は下がってしまう。ここに、共産主義のソ連と、親米保守のサウジアラビアなどが、石油をめぐって意思を交流させねばならない状況が出てくるわけである。米国としても、イスラエルかわいさにアラブの力の源泉である石油の価格を引き下げればよいというものでもない。アラブの石油が安くなれば、米国は国内で石油を掘り出すよりも輸入した方が安あがりになる。

実際、一九八六年に入って石油価格が急落し始めると、米国内のコストの高い中小石油会社は生産停止に追い込まれたのである。米国とアラブ産油国は、安全保障だけでなく、石油の面でもアンビバレンスの関係にあるといえる。ソ連とアラブ産油国との関係はすでに好転の一途にある。石油情勢の混乱がソ連にひとつの好機をもたらしたといえるだろう。ソ連の南部国境の外側に、親ソあるいは少なくとも中立的な空気が広まることこそ、ソ連の最も好むところであるからだ。

以上のように、グレーゾーンの中東で力を張り合ってきた米ソも、共通の利益をもっており、しばしば協力している。まず、すでにふれたように、中東の混乱で米ソとも武器を売り込むなどして利益を得ている。米国の軍備管理軍縮局が公表している『世界軍事支出と武器移転』(一九八五年版)によると、一九八三年の全世界の武器輸入の四二・四パーセントは中東であり、武器輸出の二八・四パーセントは米国、二六・ニパーセントはソ連によってなされている。だが、中東向けの米ソの武器輸出には限界があり、そこに第二の共通の利益が生まれてくる。

つまり、米ソはともに全面対決を避けるという暗黙の了解である。イーイ戦争や第四次中東戦争に関連して、米ソはホットラインを使って協議してきたといわれるが、相互に誤解を与えないように、また局地紛争としてコントロールできないほど拡大しないように、という配慮からだろう。前述のように、米国がリビアを爆撃したときも、軍事行動の意図と限界をソ連にわかるようにしていた気配が強い。第三の共通の利益は、中東の国ぐにに核兵器をもたせないことである。イスラエルの核兵器保有説がしばしば流れてくるが、それについては「情報戦争」の項でふれておいた。

2013年11月6日水曜日

人間の行動様式

買い物もせず、飲食もせずに長時間話し込むかれらは、商店にとってはお客ではなく、経済的観点からは何らの価値も産み出さない。しかし、かれらの姿こそが、町にえも言われぬ人間味を与えている。人口が少ないブータンは、言ってみれば巨大な家族・親族であり、村落共同体である。どこにいても、親戚と出会うし、顔見知りがいる。インドをはじめとする外国の大都会の、誰もが誰にたいしても無関心で、誰にたいしても無名某氏で気兼ねなく行動できる気楽さ、自由さ、それは同時に孤独さ、疎外にもつながるが経験した人たちの中には、これが息苦しいと言う人もいる。

しかし大半のブータン人は、やはりこの親族的・地域的繋がり、絆のある場に安らぎを見出しているようである。人間の行動様式は、文化とか、社会形態とか思想体系といった。ことにより左右される面もあるが、もっと単純に社会の大きさというのも、きわめて重要な要素ではないだろうか。ブータン社会を見ていると、人間が人間的であるためには、仰々しいことではなく、人間的なサイズであることが必要なのではないかと思う。たとえば情報に関して言えば、片や新聞、テレビ、ラジオといったマスメディア、さらにはIT時代の象徴である大容量・高速のインターネットによる一方的な情報と、片や面と向き合い、肌のぬくもりが伝わる距離で、肉声により交換される情報、この両者のうちどちらがより人間的なのかは言うまでもないであろう。

量だけを問題にする場合には、肉声はマスメディアとインターネットに勝ち目はない。しかし問題は量ではない。感情、愛情といったもっとも人間的で不可欠な情緒に関する限り、問題は量ではなく、質である。その他、行政を含めたもろもろの分野でも、社会、共同体のサイズは、その中で生きる人の、生活様式ひいては生活の質に決定的な影響を及ぼす。手続きを行う窓口一つにしても、受付係と申請者が、お互いに何の面識も、繋がりもない場合、両者はお互いに全く無関心でしかありえず、すべては機械的な非人間的な処理に終わってしまう、あるいはそうでしかありえない可能性が高い。しかしIリ両者の間に、血縁的・地域的、あるいはそれ以外の何らかの繋がりがある場合、書類の申請・受理が、ただ単なる手続きではなく、何らかの人間的な交流があるものとなる。

人間が、ある決められた作業・仕事をこなすだけの単なる「××係」「××員」に過ぎなくなるか、顔と名前があり、血の通った生身の人間でありうるか、この本質的な分かれ目は、案外と単純に人間社会の大きさなのではないだろうか。この視点から見ると、ブータン人は、人間的なサイズの社会で、自然と調和し、仏教の教えに従い慎ましく、等身大で人間味あふれる生活を満喫しているヒューマニストたちである。ブータンは、仏教ヒューマニズムの国である。

先に紹介した渡辺一夫は、ヒューマニズムに関して、「それは人間であることとなんの関係があるのか」と、つぶやく気持ちがなるべく多くの人々の心に宿り続けてほしいと、つくづく思います」(前掲書)と述べている。わたしとしてはブータンの「国民総幸福という名のヒューマニズム」を紹介した本書が、経済発展に邁進するあまり、ややもすれば人間性をないがしろにする傾向がある日本人にとって「それは人間が幸福であることとなんの関係があるのか」と考え直す一つのきっかけになれば、望外の喜びである。

2013年8月28日水曜日

アクセルはあってもブレーキがない日本の公共工事

〈私は、私たちがかねて琉球文化圏と呼んでいるこの奄美と沖縄地域の島々が、まぎれもなくさんご礁の干瀬を共有し、自然的条件のうえにおいてもほとんど共通していることに気づかされたのである。ここで私は、文化を育む基盤は大自然のもたらす条件や恩恵と深くかかわっているという想念にたどりつき、いつの間にか「コーフル文化圏」という言葉を頭の中で造り出したのである〉(『徳之島の民俗2 コーフルの海のめぐみ』)私たちの生活も文化も、自然環境抜きには語れない。たとえば、糸満の「追い込み漁」も徳之島のカムイ焼(一九八三年に徳之島・伊仙で発見された古窯跡群で焼かれた土器)も、このコーフル文化圏を器に南西諸島のすみずみに広がった。このコーフル文化圏を、島尾敏雄が名付けたヤポネシアや琉球文化圏に重ねるとさまざまなイメージが広がる。

泡瀬干潟を近隣住民の共有資産としてはどうか。泡瀬干潟は、コーフル文化圏を象徴するものだ。それが二〇世紀末に埋め立てられることになったのである。その理由が実にいかがわしい。一九九八年に、中城湾新港地区を「特別自由貿易地域(FTZ)」とする構想が生まれ、大型船が停泊する港を建設する計画が具体化したのはいいが、海底を浚渫する際に出る土砂の捨て場所に困った。そこで南側にある泡瀬干潟が選ばれたというわけである。つまり、泡瀬干潟を土砂の捨て場にしようというわけだ。埋め立てた跡にできる約一八五ヘクタールをマリーナーリソートにし、さらに企業を誘致すれば、雇用の場が生まれるし観光客が押し寄せて、地元にとっては一石二鳥というわけである。

ところが、私かホテル業者やマンション業者から聞いたかぎり、「開発の誘いは何度も受けているが、東海岸ではリスクが大きすぎるので断っている」と、全員が首を振った。「沖縄バブル」のさなかでもこれだから、サブプライムローン問題で世界的に経済が落ち込んでいる今なら確実にノーと言うだろう。さらに本土復帰以来、八兆五〇〇〇億円も使ってこれといった企業を誘致できなかったのに、今さら泡瀬に本土の企業がやってくるとも思えない。希望がないのに、あわよくばという幻想だけで見切り発車したのが泡瀬干潟埋立事業だった。埋め立てた後、土地の買い手がなければ、沖縄市は莫大な費用(予算規模約四三〇億円の三分の二と言われる)を負担することになる。払えなければ市民から徴収するしかない。そんなバクチ的事業に、那覇地裁が県と市に対して公金の支出を差し止めたのが〇八年一一月の判決だった。

しかし、案の定というべきか、県は公訴した。アクセルはあってもブレーキがない日本の公共工事の、これこそ典型的な例だろう。それにしても、干潟の埋め立てに反対するグループは「開発や埋め立てを中止せよ」と叫び、県や市は、結果がどうなろうと埋め立てを強行しようとする。なぜ二者択一の結論しかないのだろう。かつて日本には、里山などに入会権というものがあったが、この泡瀬干潟を近隣住民の共有資産とし、観光や町並みづくりに活かそうという発想はなぜ生まれないのだろう。沖縄から電柱を取り除くことができたならかなり前のことだが、沖縄県の職員と酒を飲んだとき、酔った勢いでこんなことを言われたことがある。

「あの沖縄振興開発予算を、道路なんかに使わず、沖縄から電柱をとっぱらう費用にすればよかった。これなら沖縄の土建業界も困らないし、日本で唯一電柱のない県として話題になったはずだ。悲しいことに、県行政のトップは真剣に政府と話し合おうともせず、もらえるカネは使っちゃえと、ただ漫然とばらまいてきたんだよ」県庁にもわかる人はいるんだと、私はちょっとうれしくなった。国道五八号線を北上すると、恩納村のいんぶビーチを越えたあたりに、短い距離だが電柱のない区間がしばらく続く。日本人は「電柱があっても見えない民族」と馬鹿にされるが、日本人でもそういうところを走るとどこかほっとする。電柱があるとないとでは、それだけ感じ方が違うのだ。


2013年7月11日木曜日

ルーピン回顧録

ファンド勢は低金利の円を調達して、米国債などに投資して金利差を稼いだ。「円キャリー・トレード」と呼ばれたこうした取引は、金利ゼロのタダ金を元手に世界中で博打を打つようなものである。その奔流は、自国通貨を米ドルに連動させていたタイなどの東南アジア諸国にも流れ込み、後のアジア通貨危機のタネを蒔いた。そればかりでない。日本の金融政策も事実上、拘束されることになった。いったん金利上昇の思惑が台頭すると、「円キャリー;トレード」の巻き戻しがでて、円相場が反転上昇しかねなかったからだ。ファンド勢に低利のマネーを供給することで、日本は「世界の投資銀行」である米国のデリバティブ(派生物)となった。

円安を原動力にした景気回復シナリオは九六年にかけて成功に向かうかにみえたが、大蔵省主導の財政再建路線は事態を暗転させた。九七年四月からの消費税率の引き上げによる景気後退、同年七月からのアジア金融危機、そして「山拓ショック」と呼ばれた同年十一月の北海道拓殖銀行と山一証券の破綻が折り重なり、日本は戦後最悪の経済危機に突入した。資産デフレで金融システムが極めて脆くなっていた日本は、九七年から九八年にかけての経済危機で、決定的に底抜けした。東京がニューヨ1・ク、ロンドンと並ぶ金融センターとして復活するどころか、日本はブラジル、ロシアなどと並ぶ危機の源泉として攻撃された。

九八年春以降の円相場の急落は、外国人投資家による日本株の見切り売りを伴う「悪い円安」の典型だった。日本長期信用銀行がマーケットに狙い撃ちにされるなか、同年七月の参議院選挙で惨敗した橋本政権はほふられた。馬場の表現がよみがえる。「売られた円、買はれたドル、売られた内閣、買はれた内閣、それは売られた日本、買はれたアメリカである」日本経済の最大の危機に対して、クリントン政権はビナインーネグレクト(知らぬ顔の半兵衛)どころか、マラインーネグレクト(malign neglect =悪意ある沈黙)で臨んだ。「勝手に財政を引き締め景気を悪化させ、金融システム問題にも手を打っていなかったのだから、自業自得である」というわけだ。

この間、米国側からつぶさに事態を眺めていたルーピンの回顧録〔邦訳『ルーピン回顧録』日本経済新聞社〕)が興味深い。日本に対する夕力派をもって任ずるルーピン回顧録に出てくる日本人は、橋本龍太郎が二回と宮沢喜一が一回だけである。橋本首相のくだりはこうだ。韓国の経済危機に際して、橋本首相からクリントンに電話をしてくるはずなのに、なかなかこない。仕方がないので新聞のクロスワードパズルで時間をつぶした、というのだ。退屈な日本との評価を地で行くようではないか。宮沢は小渕恵三内閣の蔵相として登場する。九八年のロシア経済危機に際して、宮沢蔵相は日米間の貸し借り交渉のように扱おうとして、世界の危機であるという認識がない、というわけだ。ルーピン自身がロシアの甘えを断つために、危機の発生をあえて黙認したことを考慮すれば、この指摘も自己中心的なような気がする。

その一方で、江沢民や朱鎔基ら当時の中国指導者に対する評価は、非常に高い。九八年六月に訪中したクリントンは江沢民との首脳会談後、中国を「アジア経済の安定役」と褒めちぎり、日本を「アジアの不安定要因」であると、強く批判した。米中関係を戦略的パートナーに格上げしたクリントン政権の下で、日本と円の地位は地に落ちたのである。円防衛のための日米協調介入は、日本からの哀願に近いものにならざるを得なかった。日本叩きの嵐が収まったのは、皮肉にも九八年八月にロシア危機が勃発し、九月にはヘッジファンド危機がウォール街を直撃してからだ。ルーピン、サマーズ、グリーンスパンのトリオはグローバル危機の収束に動いたが、大騒動か終わってみると、日本の比重はぐっと小さくなっていた。

2013年7月10日水曜日

外資主導の東京市場

ヘッジファンドや、商品取引アドバイザー、資産運用担当者などが、目立って為替取引を増やしている。IT(情報技術)バブル崩壊で〇一年には勢いをそがれていたファンド勢が、〇四年にかけて完全復活を果たしたのである。彼らの勢いは向かうところ敵なしだったが、好事魔多し。BISの市場調査の直後の〇七年八月にパリバーショックが、次いで〇八年九月にリーマンーショックが世界の金融市場を襲い、野放図な取引の膨張にブレーキがかかった。このほか政府など公的機関が外貨準備と別枠で運用するファンドがある。ソブリンーウェルスーファンド(国富ファンド)と呼ばれ、急拡大している。一〇年版「通商白書」によれば、〇九年末の運用資産規模は三兆八千億ドル。原油高に伴うオイルマネーを背景にした中東勢がそのうち四二こハ%を占める。

〇七年の調査で東京外為市場の一日当たり取引高は二千三百八十四億ドル。前回〇四年の調査に比べて一九・九%増えたが、世界の市場全体に占めるシェアは八・三%から六・〇%に低下した。二大市場はロンドンの三四・一%とニューヨークの一六・六%で、東京はスイスの六・一%にも抜かれ三位から四位に低下した。その東京市場で主導権を握るのは外資系金融機関である。取引全体に占めるシェアは三年間で四ポイント低下したものの六七・一%を占め、日本勢の三一・九%を大きく上回っている。日本株の売買に占める外国人投資家の比率が六-七割に達するなか、彼らの注文は外資系金融機関に集中している。

それと並行して、大手金融機関への取引集中が加速している。東京市場の取引高に占める上位十社の比率は七八・九%と、〇四年の調査に比べて四・ニポイント上昇した。上位二十社ともなると市場シェアは九二・四%にものぼる。外貨の世界にかかわりを持った人は、新聞などに載った大手金融機関のコメントから目が離せないということになる。為替取引と並んで、金融の主な舞台になりつつあるのがデリバティブ(金融派生商品)であ
る。BISが外為市場調査と同じ○七年四月に実施したデリバティブ市場調査の結果をみれば、一目瞭然だ。

為替と金利を合わせたデリバティブの一日当たり平均取引高は二兆九百億ドルと、〇四年調査の一兆二千二百億ドルに比べて一・五倍に増加した。デリバティブとは株式、金利、通貨などの金融商品を基に、将来の予想価値を売買したり、異なった金融商品同士を交換し合ったりする取引のことだ。これらのデリバティブ取引は、国内よりも海外との間で行われることが多い。東京市場をとってみても、外資系金融機関のシェアは〇一年の三二・〇%から、〇四年には五〇・六%となり、〇七年には六八・五%に膨らんだ。デリバティブの基になっている資産(原資産)をみると、金利関連が多いが、急速に多様化している。BISが実施した〇七年六月末時点の残高調査によると、東京市場では金利関係が全体の八割を占めた。

金利・外為関連のデリバティブは〇四年の前回調査に比べて四〇%増えた。その一方、債券や融資の破綻リスクを取引するクレジット(信用)デリバティブが実に十倍強、株式、商品関連はそれぞれニー三倍と拡大した。〇八年八月に原油先物相場が一バレル一四七ドル台の最高値を付ける高騰を演じた背景にも、デリバティブの存在がある。〇八年九月のリーマンーショックを機に世界の金融市場が瞬く間に連鎖危機に陥ったのも、クレジットーデリバティブ取引が網の目のように絡まっていたためである。



2013年7月9日火曜日

ユーロ諸国がギリシヤ国債を六割近く保有する

金融取引は借り手と貸し手から成り立つ。借り手であるギリシヤが火の車であることがはっきりしたことで、貸し手である金融機関や機関投資家も浮足立ってきた。ここでギリシヤの対外借り入れの状況を整理してみよう。ギリシヤの国債発行残高は三千百億ユーロ、そのうち、外国人投資家の保有分は二千百三十億ユーロにのぼる、とドイツ銀行は推計している。外国勢のうち、フランスが二四・九%、ドイツは一四・二%。同じユーロを使い為替リスクのないユーロ圏諸国が五八・〇%と六割近くを占めると、英誌『エコノミスト』は推計している。

ギリシャは国債以外の形でも借金をしている。そしてポルトガルやスペインなど南欧諸国の対外債務も多い。ユーロのキャリー・トレードが積み上がった結果、国際決済銀行(BIS)。によれば、これら三国の外国金融機関からの借り入れ残高は、合わせて一兆千九百三十億ユーロと一一〇円換算で約百三十一兆円にのぼる。うちドイツからの分は二千二百六十億ユーロと全体の二割弱。フランスからの分か二千百億ユーロと続き、ユーロ圏全体からの借り入れは合わせて七千六百二十億ユーロと、全体の六一・四%に達している。そして借り入れは金融機関からばかりでない。保険、年金などによる投資分も含めた対外借り入れは、ギリシャ、ポルトガル、スペインの三カ国で二兆千億ユーロと二百三十一兆円にのぼると、大手英銀のRBSは推計している。

各国ごとの残高とGDP比は、ギリシャが三千三百八十億ユーロでGDPの一四二%、ポルトガルが三千三百三十億ユーロで二〇〇%、スペインが一兆五千億ユーロで一四二%となっている。リーマンーショック後に米金融機関のレバレッジ(外部負債)依存経営が批判されたが、何のことはない。ユーロ圏内でカネ余りによるバブルが膨らみ、PIIGS諸国の経済は高レバレッジによって支えられていたのだ。同じ通貨ユーロを使い為替リスクがないことが、安易なレバレッジ拡大を可能にした。これらの借り手の危機は貸し手であるフランスやドイツの金融機関や投資家に跳ね返る。

しかも欧州の貸し手と借り手は蜘蛛の巣のように絡み合っている。今村卓・丸紅米国会社ワシントン事務所長は「これら三力国の危機になれば、ユーロ圏の金融システムを揺るがすシステミックリスクが発生する恐れがある」と強調していた。金融市場は浮足立った。市場はギリシャのデフォルト(債務不履行)を視野に収め始めた。CDSの保証料からはじいた、国債のデフォルト確率は五年内に約五〇%に達し、一〇年五月の時点でベネズエラやアルゼンチンをも上回った。投資家に対する応分の負担も取りざたされだした。大和証券キャピタルーマーケッツ金融市場調査部の中川隆氏は当時、「投資家の任意による債務交換」の可能性を指摘していた。○三年にウルグアイは①元本は削減しない②償還期限を大幅延長する③その代償として表面利率を引き上げるといった手法で、既発債と新発債の交換に成功し、元利払いの停止を免れた。金融市場がそうした可能性を、ギリシャについて織り込みだしたのである。

ユーロ圏を揺さぶる大問題に対するドイツとフランスの反応は遅すぎる。市場の苛立ちは募った。追い詰められたあげく、一〇年五月二日にEuとIMFはギリシヤ支援に合意した。一〇年から二一年にかけて総額千百億ユー一口の金融支援を実施する。ギリシヤ政府は総額三百億ユーロの追加的な財政赤字削減を実施するというものだ。ギリシヤのGDP二千三百四十七億ユーロ、公的債務残高二千七百三十二億ユーロと比較して、千百億ユーロの金融支援はべら棒に巨額である。小さすぎて遅すぎる(too little toolate)救済を重ねた結果、べら棒な金額が必要になるのは、日本の不良債権処理でもお馴染みの構図だ。問題は金融支援の見返りとしてギリシヤに求めたスパルタ策である。




2013年7月8日月曜日

未発達たったデフレの経済学

デフレは、多くの人に経済的な損失をもたらし、財政を悪化させ、将来にまで禍根を生み出すばかりか、心理的な面でもネガティブな影響を与えてしまうのである。国民を殺したくなかったら、デフレを止めろしたがって、この章の結論は、極めて明快なものである。これ以上国民を貧しくし、追い詰め、その命までも奪ってしまわないためには、まずデフレを止めることが必要だということである。十三年間で四十二万人もの人が自殺を遂げたが、そのうち、およそ三分の一は、デフレがもたらした、犠牲者と考えられる。徹底的にデフレと戦い、正常な状態に経済を戻すことによって、景気や雇用も改善するだけでなく、国民の心理状態も改善することが期待できるのだ。

デフレを脱し、適度なインフレになれば、賃金も所得も上かっていく。借金は、実質的に縮小し、資産は少しずつでも値上がりしていく。それによって、税収も増え、国の財政も改善しやすくなる。ほどよくインフレになれば、すべてが円滑に回りはじめるのだ。デフレの状態は、車をバックで運転しているようなものだ。そんな状態を十年も続けていれば、新興国にどんどん追い抜かれてしまうのは当たり前だ。要は、前を向いて走ればいいことなのである。前を向いて走ったときに力が出るように、すべてのシステムができあかっているからだ。それをバックで走ろうとしているから、すべてがうまくいかなくなってしまっている。

そのことに政策担当者も気づいて、ようやく舵を取り直し始めたのだと思いたい。猛スピードを出さなくても、安全運転で走れば、すべてはうまく回転し始める。日本国民をもっと信用して、その力をいかんなく発揮できるようにすることである。それには、潜在力を十分発揮できる環境にしてもらわねばならない。これ以上の政策ミスは、もはや許されないのだ。これまで見てきたように、デフレから脱却するうえで大前提となるのは、必要な金融政策が、十分な規模で、持続的に行われることである。景気変動やデフレのコントロールに関しては、中央銀行(日銀)による金融政策が、政府の財政政策以上に重要なのである。政府がいくら財政出動しても、国民がいかに頑張って働いても、金融政策が間違った方向に動いてしまえば、すべてを台なしにしてしまう。金融政策は、経済の大動脈弁であり、循環血液量を適正に保つ腎臓なのである。

すでに見たように、日本においてバブルが発生したのも、その後遺症に苦しめられたのも、実は中央銀行がコントロールに失敗したという点が大きいのである。このことは、すでに多くの識者から指摘されているとおりである。日銀の金融政策は、物価と雇用という、国民にとってもっとも身近な問題の根幹にかかわるものであり、その効果はゆっくりとしたものであるが、政府の政策より持続的で、強力な作用を及ぼすのである。金融政策でしくじると、一億二千万の国民の生活は翻弄され、安定的に豊かさを積み上げていくことが困難になる。いくら汗水たらして働いても、生活は貧しくなる一方で、一生かかってマイナスの資産しか築けないという馬鹿げたことが多くの国民の身に起きてしまう。しかしなぜこんな理不尽な事態に対して、有効な手立てがなかなかうたれなかったのだろ
うか。

「経済に対する現在のわれわれの理解度はその程度なのである」とグレゴリー・マンキューは、有名な経済学の教科書の中で自嘲的に述べている(『マンキューマクロ経済学H』)。政策立案者やその顧問たちは、「言わば能力を超えた仕事をしている」のが現状なのである。そのため、後から検証してみれば、まったく反対のことをしてしまったということも珍しくない。政府も経済学者も政策立案者も、何か起きているかをよく理解できているわけではないのだ。悲しいかな、誰も経済という巨大なモンスターがどういう習性をもっているか、本当にはよくわかっていないのである。それは、一般の国民にとって驚くべきことに違いないが、現実なのである。

2013年7月6日土曜日

国民同士で足を引っ張り合ってきた

未曾有の国難である。十年にも及ぶデフレ、円高不況、巨額の財政赤字、人口減少、高度高齢化、不安定な政治状況、社会の崩壊現象など、この国は誰の眼にも明らかに、大きく傾き出したかのように見える。さらに、弱り目をいたぶるかのごとく、領土問題や資源インフレ、そのうえ千年に一度という巨大地震までもが襲いかかる事態に、国民は蒼ざめ、日本の衰退をまざまざと感じ、祖国の前途に希望を失いかけている。阪神・淡路大震災の時を重ねる人もいるだろう。わが国がバブル崩壊で弱っていた九五年に起きた阪神・淡路大震災は、その後の日本がたどった苦難の道のりの起点ともなった。

それを如実に示すのは、自殺者の数である。バブル崩壊にもかかわらず二万人そこそこで落ち着いていた自殺者数が、その年から増勢に転じ、九八年には一気に三万人の大台を突破したまま、以後十三年もその状態が続いているのである。この先また、同じ悲劇が繰り返されればと思うと、暗漕たる憂慮の念に囚われそうになる。だが、試練に立つ今こそ、発想の転換が必要なのである。失われた二十年の彰を踏まないためにも、日本国民がもう一度豊かさと希望のある生活を取り戻すためにも、悪循環のプロセスの原因がどこにあったのかを知り、この危機を好機に変える認識の逆転が必要なのである。

そもそも、この問題に取り組み始めた発端は、精神科医として、なぜ毎年三万人を超える人が自殺を遂げなければならないのか、その状況の改善には何か必要なのかをさぐろうと、自殺急増の背景を調べ出したことからである。一九九八年、自殺者の数が前年より35%も増えるという異常事態の経緯や、四十代後半から五十代前半の男性の自殺が非常に多く、三十代から五十代の男性だけで、自殺者全体の半分を占めるという事実の意味をさぐっていくと、自ずと雇用や経済の問題に突き当たらざるをえなかった。

ここから先は経済学者に任せておけばよいことだと思いつつも、その結末が自殺という重大な事態に結びついているのであれば、原因を知っておく必要があると思い、私はさらに調べつづけた。こんなにも大勢の人が命を絶たねばならないこの国は、経済的にも余程ひどい国に違いない。どれほどひどい状態なのか、なぜ、そんなことになってしまったのかを突き止めたかったのである。そうしているうちに、私は予想とはいささか違う事態に出くわすことになった。調べていくうちに明らかになったのは、確かに多くの問題を抱えてはいるが、世間で喧伝されているように、破綻寸前という状況にはなく、国際的に見れば、まだまだ極めて強力であるという事実だ。綻びが見られるとはいえ、資本、技術、インフラのどの点においても、世界トップの水準にあることに変わりなく、そこまで悲観する状況にはない。人口減少の問題にしろ、本論で見ていくように、むしろ真の豊かさを実現するうえでは、有利な点も多いのである。

ところが、もっと国力に余裕のあった当時から、多くの国民は、まるで戦争にでも負けたかのように、うつむきがちになり、卑屈な物言いをして、国民同士で足を引っ張り合ってきた。普通に運営してきていれば、もっともっと豊かになれたのに、貧乏神に取りつかれたように、自ら貧しくなることばかりしてきた。何かがおかしかった。経済自体の問題もさることながら、そうした悲観的な態度の方が、問題に思えてきたのである。過去三十年の経済史を調べ、マクロ経済学の論文や内外の文献を読めば読むほど、不可解な思いは深まるばかりだった。奇妙なことに、日本人が一番、自分の国のことを悲観的に語り、他の国の専門家たちは、思い詰めた日本人たちの状況を半ば怪厨そうに、半ば皮肉っぽく傍観してきた。そして、彼らは心の中でこう思っていたに違いない。日本人はどうして自分で自分を貧しくしているのだろう。やっぱり変わった国民だと。

2013年3月30日土曜日

ブレが思いがけない迫力を生む

小さなゴミだからといって、バカにできません。カメラの画面サイズは二四×三六ミリですが、これを葉書の大きさに伸ばせば約十七倍、週刊誌大なら約五十四倍、新聞紙一ページ大で約二百五十倍にもなります。あの小さなコマを百倍、二百倍にしてもビクともしないのは、精密なカメラボディとシャープなレンズ、それに高感度微粒子フィルムのおかげです。せっかくの高性能カメラも、雑に扱ったりレンズにホコリがついていては能力の半分も引き出せません。外側だけでなく、ボディの内部にももう少し神経を使ってほしいものです。

余談になりますが、十年近く前、ロバートージェームズーウォラーの『マディソン郡の橋』という小説が話題になったことがあります。アメリカで四百万部、日本で二百六十万部の超ベストセラーになり、クリントーイーストウッド、メリルーズドリーブ主演で映画にもなりましたから、ご存知の方も多いでしょう。雑誌の仕事でアイオワ州南部の片田舎の川にかかる屋根付きの橋を撮影にきたロバートーキンケイドという写真家が、農家の主婦ブランチェスカージョンソンと短くも激しい恋に落ちるというストーリーです。この物語の中ではカメラが重要な役割を果たしていて、作画の心得や写真家の日常も細かく描写されています。その中に、仕事が終わったあとカメラをバッグにしまい込む様子が描写されています。

レンズは短いのと、中くらいのと、長いのがある。機材はどれも引っ掻き傷だらけで、ところどころへこんでいる。けれども、彼はそれをていねいに、それでいて、なにげなく扱っており、拭いたり、ブラシをかけたり、埃を吹いたりしていた。さらりと書いてありますが、この数行で彼がどんな写真家か、使い込んだカメラをいかに大切にしているか、さらには仕事に対する愛情までもが伝わってきます。ついでにいえば、主人公が使っているカメラはすべて日本製、それも、いまや大ブームのクラシックカメラの中でも、もっとも人気の高い機種でした。

さて、35ミリカメラの場合、本来の画面を数十倍に拡大して初めて作品になるわけですが、これだけ拡大させると、わずかのピントの甘さや手ブレも画質に大きく影響します。自分のカメラには自動露出もオートフォーカスもついているので、ボケなどあり得ないと思われるかもしれませんが、四倍のルーペでネガなりポジをのぞいてみると、ほんとうに満足のいくコマは、それはどないものです。サービスサイズでは分からなくても、B5判(週刊誌の大きさ)以上に伸ばしてみれば、一目瞭然です。

もちろん、ブレが思いがけない迫力を生んだり、動きを出すためにわざとブラして撮る作品もありますが、やはり撮影の基本は、できるかぎりピンボケやブレを出さないことです。いちばん確実なのは三脚を使うことですが、それが無理であれば、机でも柵でも樹木でも何でもかまいませんから、固定物に寄りかかるなり肘をつけて撮りましょう。それもダメなら、体を安定させ、両肘を締めて体に密着させて撮ります。百分の一秒だからと安心して、「ハイ、チーズ」のようなシャベリ押しや、片手撮りは禁物です。