2013年7月11日木曜日

ルーピン回顧録

ファンド勢は低金利の円を調達して、米国債などに投資して金利差を稼いだ。「円キャリー・トレード」と呼ばれたこうした取引は、金利ゼロのタダ金を元手に世界中で博打を打つようなものである。その奔流は、自国通貨を米ドルに連動させていたタイなどの東南アジア諸国にも流れ込み、後のアジア通貨危機のタネを蒔いた。そればかりでない。日本の金融政策も事実上、拘束されることになった。いったん金利上昇の思惑が台頭すると、「円キャリー;トレード」の巻き戻しがでて、円相場が反転上昇しかねなかったからだ。ファンド勢に低利のマネーを供給することで、日本は「世界の投資銀行」である米国のデリバティブ(派生物)となった。

円安を原動力にした景気回復シナリオは九六年にかけて成功に向かうかにみえたが、大蔵省主導の財政再建路線は事態を暗転させた。九七年四月からの消費税率の引き上げによる景気後退、同年七月からのアジア金融危機、そして「山拓ショック」と呼ばれた同年十一月の北海道拓殖銀行と山一証券の破綻が折り重なり、日本は戦後最悪の経済危機に突入した。資産デフレで金融システムが極めて脆くなっていた日本は、九七年から九八年にかけての経済危機で、決定的に底抜けした。東京がニューヨ1・ク、ロンドンと並ぶ金融センターとして復活するどころか、日本はブラジル、ロシアなどと並ぶ危機の源泉として攻撃された。

九八年春以降の円相場の急落は、外国人投資家による日本株の見切り売りを伴う「悪い円安」の典型だった。日本長期信用銀行がマーケットに狙い撃ちにされるなか、同年七月の参議院選挙で惨敗した橋本政権はほふられた。馬場の表現がよみがえる。「売られた円、買はれたドル、売られた内閣、買はれた内閣、それは売られた日本、買はれたアメリカである」日本経済の最大の危機に対して、クリントン政権はビナインーネグレクト(知らぬ顔の半兵衛)どころか、マラインーネグレクト(malign neglect =悪意ある沈黙)で臨んだ。「勝手に財政を引き締め景気を悪化させ、金融システム問題にも手を打っていなかったのだから、自業自得である」というわけだ。

この間、米国側からつぶさに事態を眺めていたルーピンの回顧録〔邦訳『ルーピン回顧録』日本経済新聞社〕)が興味深い。日本に対する夕力派をもって任ずるルーピン回顧録に出てくる日本人は、橋本龍太郎が二回と宮沢喜一が一回だけである。橋本首相のくだりはこうだ。韓国の経済危機に際して、橋本首相からクリントンに電話をしてくるはずなのに、なかなかこない。仕方がないので新聞のクロスワードパズルで時間をつぶした、というのだ。退屈な日本との評価を地で行くようではないか。宮沢は小渕恵三内閣の蔵相として登場する。九八年のロシア経済危機に際して、宮沢蔵相は日米間の貸し借り交渉のように扱おうとして、世界の危機であるという認識がない、というわけだ。ルーピン自身がロシアの甘えを断つために、危機の発生をあえて黙認したことを考慮すれば、この指摘も自己中心的なような気がする。

その一方で、江沢民や朱鎔基ら当時の中国指導者に対する評価は、非常に高い。九八年六月に訪中したクリントンは江沢民との首脳会談後、中国を「アジア経済の安定役」と褒めちぎり、日本を「アジアの不安定要因」であると、強く批判した。米中関係を戦略的パートナーに格上げしたクリントン政権の下で、日本と円の地位は地に落ちたのである。円防衛のための日米協調介入は、日本からの哀願に近いものにならざるを得なかった。日本叩きの嵐が収まったのは、皮肉にも九八年八月にロシア危機が勃発し、九月にはヘッジファンド危機がウォール街を直撃してからだ。ルーピン、サマーズ、グリーンスパンのトリオはグローバル危機の収束に動いたが、大騒動か終わってみると、日本の比重はぐっと小さくなっていた。