2013年7月6日土曜日

国民同士で足を引っ張り合ってきた

未曾有の国難である。十年にも及ぶデフレ、円高不況、巨額の財政赤字、人口減少、高度高齢化、不安定な政治状況、社会の崩壊現象など、この国は誰の眼にも明らかに、大きく傾き出したかのように見える。さらに、弱り目をいたぶるかのごとく、領土問題や資源インフレ、そのうえ千年に一度という巨大地震までもが襲いかかる事態に、国民は蒼ざめ、日本の衰退をまざまざと感じ、祖国の前途に希望を失いかけている。阪神・淡路大震災の時を重ねる人もいるだろう。わが国がバブル崩壊で弱っていた九五年に起きた阪神・淡路大震災は、その後の日本がたどった苦難の道のりの起点ともなった。

それを如実に示すのは、自殺者の数である。バブル崩壊にもかかわらず二万人そこそこで落ち着いていた自殺者数が、その年から増勢に転じ、九八年には一気に三万人の大台を突破したまま、以後十三年もその状態が続いているのである。この先また、同じ悲劇が繰り返されればと思うと、暗漕たる憂慮の念に囚われそうになる。だが、試練に立つ今こそ、発想の転換が必要なのである。失われた二十年の彰を踏まないためにも、日本国民がもう一度豊かさと希望のある生活を取り戻すためにも、悪循環のプロセスの原因がどこにあったのかを知り、この危機を好機に変える認識の逆転が必要なのである。

そもそも、この問題に取り組み始めた発端は、精神科医として、なぜ毎年三万人を超える人が自殺を遂げなければならないのか、その状況の改善には何か必要なのかをさぐろうと、自殺急増の背景を調べ出したことからである。一九九八年、自殺者の数が前年より35%も増えるという異常事態の経緯や、四十代後半から五十代前半の男性の自殺が非常に多く、三十代から五十代の男性だけで、自殺者全体の半分を占めるという事実の意味をさぐっていくと、自ずと雇用や経済の問題に突き当たらざるをえなかった。

ここから先は経済学者に任せておけばよいことだと思いつつも、その結末が自殺という重大な事態に結びついているのであれば、原因を知っておく必要があると思い、私はさらに調べつづけた。こんなにも大勢の人が命を絶たねばならないこの国は、経済的にも余程ひどい国に違いない。どれほどひどい状態なのか、なぜ、そんなことになってしまったのかを突き止めたかったのである。そうしているうちに、私は予想とはいささか違う事態に出くわすことになった。調べていくうちに明らかになったのは、確かに多くの問題を抱えてはいるが、世間で喧伝されているように、破綻寸前という状況にはなく、国際的に見れば、まだまだ極めて強力であるという事実だ。綻びが見られるとはいえ、資本、技術、インフラのどの点においても、世界トップの水準にあることに変わりなく、そこまで悲観する状況にはない。人口減少の問題にしろ、本論で見ていくように、むしろ真の豊かさを実現するうえでは、有利な点も多いのである。

ところが、もっと国力に余裕のあった当時から、多くの国民は、まるで戦争にでも負けたかのように、うつむきがちになり、卑屈な物言いをして、国民同士で足を引っ張り合ってきた。普通に運営してきていれば、もっともっと豊かになれたのに、貧乏神に取りつかれたように、自ら貧しくなることばかりしてきた。何かがおかしかった。経済自体の問題もさることながら、そうした悲観的な態度の方が、問題に思えてきたのである。過去三十年の経済史を調べ、マクロ経済学の論文や内外の文献を読めば読むほど、不可解な思いは深まるばかりだった。奇妙なことに、日本人が一番、自分の国のことを悲観的に語り、他の国の専門家たちは、思い詰めた日本人たちの状況を半ば怪厨そうに、半ば皮肉っぽく傍観してきた。そして、彼らは心の中でこう思っていたに違いない。日本人はどうして自分で自分を貧しくしているのだろう。やっぱり変わった国民だと。