2014年12月17日水曜日

一ドル三百六十円の時代

永子さんが私より十歳下、洋子さんはさらに五つ下です。年代が違いますから、いわゆるライバルじゃないんですけど、お二人とも私の踊りの一挙手一投足をまねしました。年長の私か少し先を行こうとちょっと動きを変えても決して見逃しません。先輩から吸収しようという気迫は怖いほどでした。年代の差で三人のファン層は、小学生から大人まではっきり分かれていました。

頻繁な公演のおかげで、舞台写真が少女雑誌の扉を飾るなど、バレエ団の知名度はだんだん高くなりました。でも、肝心の公演には、そうは観客が入らない。それに、バレエの公演というものはたとえ満席でも赤字になるものなのです。入場券の売り上げは会場費やオーケストラなどにほとんど消えてしまいます。新作なら装置、衣装にも大きなお金がかかりますし、踊り手へのギャラなどとても出ません。職業バレエ団でも、そんな状況だったのです。頻繁な公演は牧バレヱ団の台所事情を猛烈に圧迫しました。元々、母の率いる橘バレエ団の時代に一度破たんしているんです。公演で借金がかさんで、当時後援会長をしておられた武者小路実篤先生にも出席して頂いた幹部会議で、「もう公演は致しません」つて母は約束した。でも若手も育ってくるし、公演がやりたい。「バレエ学校の発表会なら良いだろう」というので、団員が最後の方で踊っていたんです。

それが、私のアメリカ留学で、母はまた相当借金をしてしまいました。一ドル、三百六十円の時代です。滞在費やレッスン料など、際限なくお金がかかりました。その後かなり借金が返せたので公演を再開したんですが、牧バレエ団を旗揚げして、また借金が重なっていきました。なんといっても大きな赤字を出しだのが定期公演で、結局二年で断念せざるを得ませんでした。六〇年代半ば過ぎには、「手形が落ちないと今日の幕が上げられない」と、早朝から知人やバレエ団の支援者からお金を借りて回る「借金地獄」になっていたのです。

牧バレエ団に大変な借金があることに薄々気付いたのは、一九六二年ごろでした。母は決して愚痴を言わない人なんです。だから、母の口からは何も知らされていませんでした。でも次第に隠せなくなってきたんです。六九年一月、母のバレエ生活四十周年を記念する「飛鳥物語」の公演が東京・日比谷の日生劇場で行われました。その準備中から母の様子がおかしくなりました。気分が悪くなったり稽古を見ていて居眠りをしたり。そして私の愛称を呼んで、「チャミ、ママは頑張っても疲れてだめなの」と弱音を吐くのです。それまでにはないことでした。公演を終えると十日足らずで倒れ、肝硬変でずっと入退院を繰り返すようになりました。借金のやりくりも、私の肩にかかってきました。

借金をゼロにすることにしたのです。入院中の母は、私か付き添わないと駄目でしたから、借金の清算と看病で、次第に舞台に立つどころではなくなっていきました。引退など考える暇もなくトゥシューズを脱ぐことになったのです。でも団員や生徒の稽古は一日も空白にできません。改めて私かお金を借りて、小さな校舎を渋谷区富ヶ谷に建てることにし、幼い時に別れたままの父の危篤の知らせがインドから入ったのは、その最中の七〇年六月のことでした。衰弱した母に代わって私かボンベイ(ムンバイ)へ行き、僧院のような所で三十三年ぶりに父と対面しました。父は力なく私の手を握るのがやっとで、翌朝には帰らぬ人になりました。帰国すると母は黙って遺骨を受け取りましたが、夜中に遺骨を抱いては四、五日泣いていました。

2014年11月17日月曜日

市民利益を最優先に考える司法制度は

一般の市民が、自らが主権者であることの重大な意義を認識し、社会参加できる陪審制は、市民の利益を害するはずがありません。その意味では、陪審制への期待は、市民自身の側からもっと高まってもいいはずです。

また、そうした市民の利益を汲み上げる政党やマスコミの強い支持があってしかるべきです。日本では、多くの人々の幻想の上に成り立っている裁判ですが、陪審員を入れれば裁判に対する幻想などは吹き飛んでしまうでしょう。

その意味で陪審制は、裁判手続のおり方を抜本的に良くするためだけでなく、実は日本人の意識を変革するための特効薬になると思うのです。手続に鈍感なままに馴らされてきた日本人の「お上頼り」意識の象徴が、裁判官への「絶対的な信頼感」でしょう。

私は決して一人一人の裁判官を恨んでいるわけでもなければ、彼らをけなすことが本意なのでもありません。裁判官もそれなりに苦労して、できるだけ合理的に仕事をしているに過ぎないことも理解しておくべきでしょう。例えば、裁判官が法廷で居眠りするなどという話も、現行の制度では合理的な面さえあります。

これは皮肉でも何でもありません。ダラーとした尋問が続いていても、裁判官としてはとやかく注意しにくい雰囲気があります。その退屈な尋問を聞いていなくても、バッチリと取られている記録を後で読めば同じことです。むしろ、その場で聞き違えをするよりも確実でさえあります。

2014年10月16日木曜日

下世話な職業訓練

諸外国と比べたとき、日本の小学校の教育水準はかなり高い。読み書きそろばんレベルを教わる課程は、真面目な日本人に合っているのかもしれない。中学もけっこう高い。だが、高校、大学、大学院と上に行けば行くほど、中身の密度が希薄化していくのはなぜなのか。しかも、教える内容が間違っている。もっと社会に出て役に立つ知識を身につけなければならない。もちろん、才能に恵まれた子どもたちは、レベルの高い高校からレベルの高い大学・大学院に進学して、ハイレペルの研究環境で切磋琢磨すればいい。ノーベル賞を狙いますという人たちは一定数必要なので、トップクラスのアカデミックスクールは、社会全体で残しておかなければいけない。いや、そういったトップ校は、ひたすら学問の世界のオリンピック金メダルを目指し、ハーバード大やスタンフォード大、オックスフォード大やケンブリッジ大にガチンコで勝負を挑んでもらわないと困る。

だが、いまの教育システムでは、スポーツにたとえれば、オリンピックで金メダルを目指せる才能の人と、趣味のジョギングが精一杯の人を、同じ仕組みで教えようとしている。ここに大きな無理がある。そんなことは本来あり得ない。それでは、両方ともダメになってしまうのだ。実際、ほとんどの大学で研究者を目指す人はごく一握りで、卒業生の大半が就職していくわけだから、そういう大学がアカデミックスクールを気取っても、まったく意味がない。特に文系学部はそうである。大学「教授」といっても、社会人として生きていく術を学生たちに「教え」「授けて」いる先生はほとんどいないのが現実だ。

だいたい社会人として娑婆で暮らしたことがない人にその術を教える能力はない。こういうことを言うと、大学教授の本分は研究、真理探究であって、下世話な職業訓練ではないという手合いが出てくる。しかし、研究のプロを自任しているのかもしれないが、グローバルレベルで競争力のある研究をしている人がはたしてどれだけいるか。研究の世界こそ、きわめて冷酷冷徹に高い能力のみが求められるのであって、アカデミックの世界で本当に戦える人材は一割もいないのではないか。残りの九割は、残念ながら、アカデミックとは無関係。だから、黙って職業訓練能力を磨くことに徹すればいいのだ。

その意味で、大半の大学教員のキャリアパス、人材要件は、大幅に書き換える必要がある。社会人として、企業人として、生きていく基本作法、スキルを自分自身がちゃんと身につけているか、そしてそれを教えられるか。そういった能力を持っている人は、会社の中にこそたくさんいる。そう、中高サラリーマンを大量に大学教員として採用すればいい。そうすれば企業の人件費負担は軽くなるし、社内の人口逆ピラミッド構造問題、いわゆる「上司高齢化問題」も解消して新卒学生への求人も増えるだろう。既存の大学教員の失業は増えるかもしれないが、博士課程を卒業できるほどのインテリエリートの失業問題まで国家や社会が心配する必要はない。

そもそもビジネススクール、ロースクールは高等職業訓練校明治期に開校した多くの大学、たとえば早稲田大学は東京専門学校、明治大学は明治法律学校、中央大学は英吉利法律学校として始まっている。これらの学校は、いまで言う専門学校、要するに職業訓練校なわけで、一部の上位大学を除いて、その時代に戻ればいいのである。研究者を輩出するアカデミックスクールは、日本全体で一〇、多くとも二〇大学もあれば十分ではないか。米国では、ロースクール、ビジネススクール、メディカルスクールというのは、完全に職業訓練校になっている。天下のハーバードービジネススクール、ハーバードーロースクールといえども、ただの「高等職業訓練校」なのである。

2014年9月16日火曜日

租税特別措置の動向

自民党税調の影響力が高まった時代以降の租税特別措置の動きを、簡単に振り返っておこう。年度を追い事項と減免額を述べるのは、あまりにも煩雑となるので、主たる動きだけをしめしておきたい。さて、先にも述べた上うに一九六〇年代に租税特別措置の力点は、企業の輸出競争力や技術開発などを目的とした輸出振興税制におかれていたが、一九七〇年代初頭のニクソンーショックによる円の切り上げ以降、それらは姿を消していく。代わって七〇年代の企業にたいする租税特別措置の力点は、当時の公害環境問題の深刻化を反映して、公害防止施設についての特別償却制度、公害防止事業費負担金の一部損金算入、騒音規制地域外への工場移転にともなう買換え特例などをはじめとした、公害関連税制におかれるようになった。

もちろん、こうした租税特別措置には、PPP(汚染者負担原則)に反するとの批判が当時の野党や公害関係住民運動団体から生じた。それに一面の真理が含まれているのは事実である。ただ、このような方向転換は、経済団体が世論の批判に耐えかねて政治に自己負担の救済を求めるとともに、政治の側がそれを集票機能の拡充に利用した結果である。同時に政策論としてみれば、環境基準の規制の強化をはかるだけではなく、その実現にむけて何らかのインセンティブを対象に与えなくてはならない。公害防止の補助金支出とならんで、「隠れた補助金」の支出によって、インセンティブの多元化をはかると同時に、一般歳出を抑制しようとした予算官僚制の意図を読み取れるであろう。

この公害関連の租税特別措置に加えて七〇年代に顕著となったのは、当時の都市・住宅問題への対応としての住宅譲渡所得の特別控除、土地譲渡所得にたいする特例の導入などであるとともに、特定鉄道設備の特別償却、地中送配線設備の特別償却、特定ガス導管工事の償却準備金制度などであった。第一次オイルーショックに加えて第二次オイルーショックを経験する七〇年代後半から八〇年代にかけて目立つのは、エネルギー資源設備についての特別措置である。一九七五年度にエネルギー資源有効利用設備の特別償却が導入されるが、その後も省エネルギー設備の特別償却、エネルギー利用効率化投資促進措置などが次々と設けられ、同時に対象を拡張していった。

そして、八〇年代中盤から租税特別措置を彩るのは、「民間活力」導入に関する租税特別措置である。まず八四年度には、先端技術産業が「高度技術工業集積地域」において新増設した設備にたいする特別償却制度が導入された。これに続けて、八六年度になると東京湾横断道路株式会社の発行する割引債についての分離課税、民間活力によって整備される特定施設にたいする特別償却制度、エネルギー基盤高度化施設にたいする特別償却制度などが導入されていくことになる(この動向について詳しくは拙著『財政破綻と税制改革』岩波書店、一九八九年を参照されたい)。

2014年8月21日木曜日

規制緩和が裏目に

ECBのトリシエ総裁は「過剰流動性が中期的なリスクになる」と警鐘を鳴らし続けたが、デフレ懸念の前に中央銀行は米住宅価格の上昇という副作用に目をつぶらざるを得なかった。グリーンスパン氏が過ちの可能性を予見した○二年以降、米住宅価格は約四割上昇した。同氏によると、金融危機の震源となった米国のサブプライムローンの貸出残高は、○二年から○五年にかけて約三倍に膨らんだ。○七年のバブル崩壊後、米住宅価格は○五年後半の水準まで戻したにすぎない。グリーンスパン氏からバトンを受け取ったバーナンキFRB議長は自説の証明に取り組むかのように、米国として史上初のゼロ金利政策に踏み切り、住宅ローン担保証券(MBS)のほか、自動車ローンなどから組成した資産担保証券(ABS)をFRBが直接買い入れて、市場に流動性を供給する方針を打ち出した。

それでも住宅価格に底入れの兆しは見えず、ローン返済が困難になった借り手の自宅差し押さえで、中古住宅の在庫の積み上がりが目立つ。信用収縮の猛威は米経済を根底から揺さぶり続けている。グリーンスパン氏が○二年に比較考量したデフレとバブル。どちらの代償が大きかったのかはまだ定かではない。「金融機関の取締役会だけでなく、規制当局、議会、弁護士、機関投資家みんなが間違えた結果です」(ウィリアムードナルドソン氏)「(経営から)独立した会長職、取締役を推薦できる株主権が必要だった。簿外会社の連結算入を義務づけるように米財務会計基準審議会(FASB)にお願いしていたのだが」(リチャードーブリーデン氏)

登記コストが安く米国中の企業が登記することで知られる会社法の町、米東海岸デラウェア州ウィルミントン市。投資家団体の国際企業統治ネットワーク(ICGN)が二〇〇八年十二月に開催したセミナーで、二人の米証券取引委員会(SEC)元委員長が、金融危機を防ぎきれなかった米政府の不手際を嘆いた。なかでもドナルドソン元委員長は、金融派生商品(デリバティブ)など急速に発達した新しい金融商品に「米政府が対応しきれなかった」と述べ、ブッシュ政権が耳推進してきた規制緩和路線の弊害を強調した。

公的資金を受け入れた保険大手アメリカンーインターナショナルーグループ(AIG)、銀行大手シティグループ、破綻した証券大手リーマンーブラザーズ、身売りを迫られた同メリルリンチにベアー・スターンズ。経営危機に陥った原因で共通するのが、証券化商品や企業などの信用リスクを売買するクレジット・デフォルトースワップ(CDS)など新しい金融商品の在庫を過重に抱えたことだ。

こうした新しい商品はSECや米先物取引委員会(CFTC)の管轄外。新商品の開発が続いた一方で、グラス・スティーガル法の撤廃など一九九〇年代から続いた規制緩和が追い風となり、銀行は証券の引き受け販売が、証券会社はローンが容易になった。長期間にわたる低金利に加えて金融機関がリスクを取りやすくなったのは規制緩和の恩恵とも言える。企業の資金調達コストが下がり、融資を受けにくかった個人も住宅取得が可能になった。AIGが巨額損失を出す原因となった保証業務は、AIGの高格付けを利用して、証券化商品の元利払いを投資家に約束するビジネス。CDSを用い、保証残高は四千億ドルを超えていたが、六十兆ドル規模とされるCDSを担当する省庁はない。

2014年7月24日木曜日

円高は防げないのか

実物面での経常収支と金融面の資本収支のアンバランスを埋めることがなげれば、為替レートが不安定なのも当然である。しかも将来、円高が見込まれるときに積極的にドル債権に投資しようとはしない。キャピタルーロス発生の予想はドルヘの投資を消極的にする。これによって予想された円高が実現していくこととなる。為替レートが十分に経常収支を制御する、すなわち円高で輸出が減り、輸入が増えなければ円高が継続して進行することは先の議論からしても当然のこととなる。一九九〇年末のバブル崩壊後からの円高の進行はいかにも「異常」であるが、経常収支黒字幅の拡大が為替レートの動向とはまったく反対方向に動いたので、傾向的な円高も避けられないことであった。

この円高は日本経済に大きな影響を与え、せっかく景気回復の兆しを見せてもすぐに逆戻りさせてしまった。後で詳しく検討するが、為替レートの変動自身は望ましいものではなく、安定するに越したことはない。そこで、為替レート安定のための経済政策を行うことが要求される。第一の方法は「介入」である。食糧管理などの価格維持政策と同様、マーケットで円か高くなりそうであれば政府がドルの買い介入を行い、円か安くなれば売り介入を行うという単純な政策である。

これを徹底して行う、すなわち、無限介入を行えば、為替レートは固定化される。がっての固定相場制とは、あらかじめ為替レートが決められており、これによって生じるドルの過不足を全額日銀が介入で買い入れ、または売却を行う制度であった。このために、とくに売り介入を行うための外貨準備はきわめて重要な存在であった。

変動相場制度の下でも、短期的な通貨の変動に対して介入を行うことはごく普通のことである。しかしながら、これは成功していない。円高傾向に対してドル買い介入を続けたため表に見たように、日本は世界一の外貨準備を持つ国となってしまった。今日、世界の為替取引は一目に一兆ドルを超えており、少々の介入を行っても為替レートを動かすことができない状況にある。

むしろ、政府の介入は為替レートに関する期待を生むことになる。もし介入が成功しなければ、投機を行った投資家は大きな利益を得ることになる。介入は投資家に安心して投機を行わせることにもなりかねない。すなわち、ドル買い介入が行われている限り、それは円高気配であることの情報を流すことになり、これに投機が乗ると介入が成功するかどうかわからなくなる。事実、これまで短期的な為替レートでも安定化に成功したことは稀である。

2014年7月10日木曜日

要するに母は七〇代の家政婦さんに嫉妬しているのである。

母親は、見舞いにくる父親に対して、夜中にあんたの旦那さんは若い女とのんきに暮らしているといいにくる人がいる、といったという。正月に、家政婦さんが休むのに合わせて父親だけが有料老人ホームのショート・ステイを利用したあとは、父親に当たる度合いがことにひどかったようだ。

私たちの海外旅行の間、二人でこのホームを利用したことがあって、スタッフの若い女性がいろいろ世話を焼いてくれるのを知っていたからである。

若い女とのんきに暮らしている、といっても、要するに七〇代の家政婦さんに嫉妬しているのである。ストレートに牽制するのはさすがに気が引けるから、嘘を使ってイヤ味をいうのだが、入院見舞いならさっさと逃げ帰る手もある。一時帰宅してねちっこくやられたらたまらない、と父親は思ったらしい。

母親は、入院する直前、夜中に布団の中で大便をした。さすがに自分でも体裁が悪いと思ったのか、私たちには知らせずに後始末をするよう父親に迫った。

そのときに最初の脳出血があったと思われるのだが、翌朝になって家政婦さんが事実を知り、たまたま私か仕事にいっていた名古屋に家内から連絡があった。仕事を済ませて深夜に帰宅し、その翌日に入院させて発病がわかったのである。

病気だったのだから、大便の始末もやむをえない。いくら我がままな母親でも、亭主がそうなれば黙って始末しただろう。それなら父親も、七〇年連れ添った女房のために、こんなことの一回や二回、黙々とすればいい。それが老夫婦の暮らしというものだろう。

ところが父親には、なんて大便の始末を自分がしなければならないのか、こんなことが繰り返されてはたまらない、という感覚が根強くあった。現に家政婦さんに、繰り返しこうボヤいたそうだ。

くだらない邪推に基づいて母親に絡まれてはかなわない、という気もあったに違いないが、この点が母親の一時帰宅に抵抗した最大の理由だろう。妹たちもそこはわかっていたはずなのに、あくまできれいごとですませようとしたわけだ。

2014年6月25日水曜日

二十一世紀に向けて

西欧の第三世界運動を訪ねる旅で、豊かさを問い直し、自らの生活や社会を変えようとする多くの市民たちに出会って帰国したとき、意識の落差にショックを受けた。人間が宇宙にまで行ける技術を手にしたこの時代に、同じ地球上で何億人という人々が飢え、環境破壊が人類を脅かしているという危機感が市民たちを行動に駆り立てていたのだが、そんな危機感が日本ではあまりにも薄いのだ。日本の経済さえうまく行けばいいという経済大国のおごり、相互依存の世界で日本だけが繁栄し続けることなどありえないということに気づいている日本人はまだ少ない。

「日本に来てみて一番驚いたのは、日本がいつまでもアジアや第三世界の国々から資源も労働力も何もかも収奪し続けられると信じて疑わないことだ。私たちがもっと闘って日本人にそのようなことをさせなくなったらどうするのか、そんなことは考えもしないのだろうか」マレーシア、サラワク州のシブという町で熱帯林を守る運動をしている青年が漏らした言葉は痛烈であった。まさに北の工業国が南の途上国を収奪することによって成り立っている不公正な世界の経済システムー南北問題。そのような世界の経済を支配する大国日本の市民として、その解決のために行動する責任を問うているのだ。

この責任に気づいてすでに行動を起こしている同じ北の先進国西欧の市民だもの経験に学ぶところは、まだまだ多い。ここで、なぜ西欧で第三世界に関わるNGO活動が盛んになったのかまとめてみると、第一に民主主義の伝統の重みがある。日本では援助は、お上がやることという見方が今でも根強いが、西欧の場合は政府より先に市民が援助活動を始めたのだ。

第二に、キリスト教のユニバーサリズム、つまり、困っている人がいればどこの国の人であろうと助けるという国境にこだわらない発想がある。第三に、貧困、低開発の原因を歴史的にとらえ、植民地支配への反省が援助活動の根底にある。第四に、南の貧困、南北格差の拡大を現代の経済システムの危機と見て、トータルに問い直そうとする。第五に、南からの移民労働者の大量流入で異文化と接触し、摩擦を感じながら関心を高めた。

これらの要因はいずれも日本のNGOも共有できるし、すべきだと思う。第一の民主主義ということも、NGOは援助を市民の手に取り戻し、官僚支配の日本の社会を民主化することにつながらなければ意味がないということである。第二の国境を越えて痛みを分かち合うということは、キリスト教文化圏でない日本でも物質主義以外の精神的なものを大切にする価値観が求められており、真の意味での国際化が必要である。

第三の植民地支配への反省は、朝鮮半島、台湾への支配だけでなく、がっての中国、東南アジアへの軍事侵略への厳しい批判が援助活動。の原点になければならないということである。第四の地球的な経済危機は経済大国となった日本の責任が重大なだけに、その変革につながるかどうかNGO活動が問われている。第五に、外国人労働者は日本にも入ってきており、異なった文化を持つ人々と共生できる日本にするためにNGOが担うべき役割は重い。

2014年6月11日水曜日

アングロ型競争市場における格付け機関の役割

経済環境の変化については、特に、日本のように信頼できる企業情報が少ない環境のまま規制緩和が行われると、銀行やノンバンクなどの短期資金貸付機関も、社債格付け情報に依存して格下げ企業への資金供給をストップし、そのために企業経営が苦境に陥り、再び格下げが必要になるということが発生する。ソブリン格付けにおいてもヘッジーファンドのような逃げ足の早い資金によって為替変動が大きくなると、金融的変化が実物経済のファンダメンタルズを悪くするので、格下げの連続的悪循環が発生する可能性がある。

格付けの変更の頻度が上昇しても、格付け情報を利用する投資家が変更の頻度を知って対応すれば投資情報としての実害は少ない。コンピューターの発達によって投資家のポートフォリオの変更が瞬時にできるようになっていれば、格付け情報を受け取ると同時にポートフォリオの組み替えが可能である。しかし、格下げのタイミングが市場の動きよりも遅くなると、格付け情報を購読している投資家はマイナスの影響を受ける。したがって、市場追随型の格付けを行う機関は投資家を定期購読者としてつなぎとめることが困難になる。

現在進められている日本版ビッグバンは、二〇〇一年までに日本の金融市場をニューヨーク、ロンドンと並ぶ国際金融市場にしようとすることを目的としている。しかし、その方法は日本独自の企業、金融システムを考慮して立てたプランではなく、ニューヨークやロンドンで自由化されているものは自由化し、規制されているものは規制しようという、いわば明治維新的文明開化のスタンスである。一言でいえば、これまでの日本的なシステムをアングローサクソンないしアングローアメリカンのシステムに転換しようとするものである。業界の協調や行政指導による秩序形成から、市場競争による資源配分の方法に転換するプランといってもよいであろう。

「自由競争にまかせる」という考え方は、アダムースミスに始まる古典派を出発点として、「パレート最適」を達成しようとする新古典派経済学の考え方を通って、一九八〇年代にサッチャー元首相やレーガン元大統領によって「規制緩和による市場経済」として実施されてきた。「パレート最適」というのは自由競争に任せれば最も効率的な資源配分が達成され、資源の利用者の効用が最大になるという考え方である。資本市場における「パレート最適」は、資金の供給者(投資家)、仲介者(金融機関)、調達者(借り手)に対する規制を排除することによって達成され、政府の役割は「情報の開示を徹底させる」ことであると理解されている。

これを日本市場で考えれば、「適債基準」などによって行政や産業団体が決めてきた資金配分を、投資家が主導権を持つ資本市場で配分するように変えようとするものである。銀行、証券などによる金融仲介も、落伍者(倒産)を出さない護送船団方式をやめて、外国の金融機関にも実質的に日本市場を解放して、日本の市場で外国の金融機関が主役をつとめるという、ウィンブルドン現象が起きても金融の利用者の効用が向上すればよいと考える。

2014年5月23日金曜日

糖尿病に関する教育

退院した日に海外出張、天ぷらが無性に食べたい(男性・初診時六〇歳)Oさんは商社マン、最低二ヶ月に一回は海外出張という生活を送っています。一九九〇年(五五歳)頃から検診で糖尿病を指摘されていましたが、放置していました。九五年八月(六〇歳)当科初診。一七一センチ、七五キロ、空腹時血糖値二六四。眼底検査を行ったところ、眼科医の診断は「かなり進行した糖尿病性網膜症が認められ、早急に光凝固治療が必要」という厳しいものでした。

九月に一八日間入院、血糖のゴッドロール、糖尿病に関する教育、食事指導を行い、併行して眼科で網膜症の治療、退院した日に海外出張という忙しいスケジュールでした。退院後は非常に熱心に食事療法と運動療法に取り組んでいました。自宅が病院の近くということもあって、夕方になると運動療法のために病院の廊下を黙々と歩いているのを何度も見かけました。

頻繁な海外出張にもかかわらず、糖尿病のコントロールか非常に良い状態が二年間続き。体重七二キロがキープされていました。しかし九七年七月頃から体重が増えはじめ、一〇月七六キロ、九八年二月八〇キロとなってしまいました。当然血糖値も高くなっていたので、何か生活で変わったことはないか質問したところ、最近接待で飲むアルコールの量も増えているし、天ぷらが無性に食べたくなり、かなり食べている、運動もついついおっくうになって少ない、との返事でした。

油ものは血糖か上るので食べない方がよいと分かっていても、二年間も我慢すれば食べたくなるのも当然だと思います。また運動療法を継続するのがいかに難しいかを教えられた症例でもあります。「ほどほど」というさし加減をどの辺にすべきか。非常に難しい問題です。

2014年5月3日土曜日

貸付金債権を現地通貨による出資金(エクイティ)にスワップするケース

このように貸付金債権(デッド)を現地通貨による出資金(エクイティ)にスワップしてしまったケースも現実にあり、またさらにニューヨークで途上国株式を対象に組み入れた投資信託が近年数多く発売され、これによって先進国資金が途上国へ事実上還流するスキームが成立したと説く者もある。またブラジル等は強力に推進の方針である。

しかし、これらのケースが大規模に発生しない限り成功であり、例外案件扱いとしてよいのであって、それぞれ1000億ドルに近い対外債務をもつメキシコなりブラジルなりが、その累積債務の大半をエクイティースワッピンクで整序できるはずもない。

また公的債務がスワップの対象である限り、たとえばブラジルなりメキシコなりの公私産業に対して大規模な外国資本の支配をゆるすこととなって、別の次元つまり、ナショナリズムなり、排外的国民感情を刺激するなどの問題が発生する懸念がある。

さらに、貸出し側(某銀行)にしても巨大な貸倒れ化または一部貸金の切捨てというハードルを超えねばならないであろう。また、このような安易な方法があるとして再び放漫借入れを債務国側に助長することとなる。こうして、このような新方式の一般化はいうべくして事実上困難な道である。

2014年4月17日木曜日

中産階級の素養が高まる

不動産がこれだけ伸びてきたのであるが、庶民に住宅が行き渡ったかと言うと、伸び率は高くないと思う。これは統計上で見てはいないが、次々と立ち上がる近くのマンションを見ていると、相変わらず投資目的が多いし、内装工事が終わるとすぐさま賃貸しをけじめ、一軒の家に数人が同居している。(中国では各部屋に鍵がかかる型式が多いので、トイレ、風呂場、台所を共用して、部屋を分けている。部屋はリビングを中心として回りに配置されている)次々建設と言うけれど、結構古い建物を壊し、新しくしているところもあるので部屋数は増えているのであろうが、一杯になっているマンションは見たこともない。また、地方の農村から都市に来ている人もいるのであるが(農村の家はどうなるのか?)私の会社の社員のように大学を出て外資系に勤め三十年月賦で銀行から借り入れし、家を持てる人は全体から見ればまだまだ限られている。

給料から言って、昨今の不動産の値下がりを考慮しても高すぎる。更に銀行から借り入れるとなると、本人が官庁、ある程度優良な国有企業、または有名な外資系企業に勤務しているか、さもなければ知り合いが銀行や官庁にいないと信用の面から言ってもなかなかローンを組めないでいる。私は、中国が本当の意味で中産階級が豊かになるのは、どれだけ自分の家を持てるかに関わってくると思う。アメリカですら家を持てない人にサブプライムローンで住宅供給という政策が結局破綻している。アメリカも想像以上に貧富の差が進んでいるという一つの証左であると思うが、中国も平米の狭い、中産階級が買いやすい住宅の供給等も始めているので(従来の中国人の感覚から言うと大家族が前提にあるので一〇〇平米以上が中心であったが、最近は頭金も低い六〇平米以下を政府が指導している)これがどれだけ功を奏するかしばらく様子を見る必要があるように思う。

やっとのことでマンションを購入しても、自分の住む部屋のみ簡易的な内装を施し、その他は壁がむき出しのまま、また家具も何もない家など様々であり、家を買うことによって持ち金を使い果たした人も私は沢山見ている。それでも家が先ず欲しいというのが現実のようである。ましてや中国では結婚となると男側か家を用意せねばならないので、男親は、男の子が生まれるとすぐさま貯蓄も開始せねばならない。この意味で、庶民の中でも都市にいる中産階級がまず豊かになるということが中国の将来を占う鍵のように思える。そのことにより中産階級の素養も高まり、それが中国全体を押し上げていくように思える。

この本の中で、中国のことを書いた本にも係わらず、北朝鮮のことに触れた。韓国や台湾に関しても若干触れた。また、私はたびたび権力とは寛容であると書いている。この本を読んだ若い人はどれだけ理解できたかは分らないが、確かに寛容であるが権力者の許す範囲ということは述べてきた。日本は中国のような皇帝独裁の国ではなく、自由と民主主義の国である。そして誰でもが、何を言っても身分は保証されている。拘束されることはない。しかし、この自由の中で、自由だから何でも出来るということが却って本人が目標を失ってしまい、他人との係わり合いも上手くいかず、結果的に社会の犯罪者になってしまうことがあるのも日本の社会の現象である。

中国の庶民生活に触れる中でも同じようなことがあることを書いてきた。政治的には日本の社会と比べるとほんのわずかしか自由がない社会にも係わらず、自由が手に入った途端に、他人との比較が始まる。自由社会の中で努力次第では一見何でも手に入るように見之乱可彼にあって私にはないもの。簡単な物質や食料はすぐさま手に入るように豊かになってきた。ただし安定した生活や地位は簡単に手に入らない。しかし、子供の時から親に至れり尽くせりと面倒を見られてきたので自分の力で自由を謳歌することが出来ないでいる。世間は甘くなかった。中国では「有関係」(ようくあんし、と読む)を他の人と持たねば、どんな社会生活でもスムーズには進まない。子供は、親が築いた「有関係」をどのように築いたかは分らない。ここで私か経験している「有関係」について簡単に触れよう。